「中庸」とは何か?
というのは、東洋思想を学び始めた頃から探し続けているテーマの一つです。
ググると、
「極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと」
と出てくるのですが、最初の東洋思想の先生からは「そんな簡単なものではなく、敢えて言うなら『太極』である」と教わりました。そして、
「太極」とは何か?
ということを考えていたのですが、それがこの週末、そして今日、ようやくその一部を理解した気がします。
太極とは、一極二元でものを捉えることであり、陰陽それぞれに振り切ったのちに止揚して一つ上の次元に視点が移行した、その概念。
例えば、ガツガツ働いても成果が上がらず、ちょっと緩めたときにドーンと成果が上がったりする、それを体験的に認識して俯瞰するその在り方、ともいえる気がします。
ちょうどそんな出来事があり、腹落ちしました。
一極二元でものを考えていくと、視点がどんどん上がっていき、「中庸」に行き着きます。
ただし、「中庸」は単なる考え方に終始してしまうと薄っぺらのペラペラ、二次元的帰結しか得られません。
一極二元の二元(陰陽)を体験的に、それもそれぞれに振り切った二元(陰陽)を体験することによって、止揚を体得でき、次元が上がります。
金足農業に準決勝で負けた近江高校の人たちが、「負けた相手が金足農業でよかった」と言っていましたが、それは、金足農業ナイン、近江高校ナインのそれぞれがそれぞれの役割を果たし切った、それを体感したからこそ出てきた言葉であって、それも一極二元の止揚の視点であろうと思います。
「中庸」とは、そういう振り切った、果たし切った、
2つのものをそれぞれ限界まで追求した先にある「一段上の真ん中から見た視点」なのではないか、
と、そんなことを考えました。