帝王学の話です。
Don’t cross me.
というのは、
「自分に逆らうな」とか「自分に歯向かうな」と訳されることが多いですが、
感覚としては、
「自分を裏切るな」というイメージがのほうが近いだろうと思います。
crossというのは元々キリストの十字架を意味する単語で、そこから様々な意味が派生しているのですが、
これを「逆らうな」とか「裏切るな」と使う場合、
主体たる人がその相手に与えたポジション、期待した役割などに反したり、それを超えたりした場合に使われます。
そこには、
帝王たる主体者が描く人間関係の構図がまずあって、その構図の中のコマたる人がそれに反する、それを損なう場合に「don’t cross」を使います。
例えば海外ドラマ『スキャンダル』でオリビアがアビーに対して「never cross me.」と言ったのがそれです。
人間関係というのは常に互いのなんらかの思惑の上に成り立っています。
シンプルに楽しいというのも一つの思惑ですし、
世界が広がるというのも一つの思惑です。
なので、たいそうな策略や計略がなかったとしても、何らかの人間関係がある場合はやはり常に思惑があるといえるだろうと思います。
例えばふつうの友達である場合でも、それを自覚しているかは別にして、大抵は何らかの思惑をベースに関係が構築されているもの。
すべての人がそうした思惑を認識している必要はありませんが、
足場を築き、他人に惑わされることなく自律的に生きるとか、
あるいは何か多くの人の協力を得て実現したいことがある場合には
たとえ「人の上に立つ」などの野望を持っていなかったとしても、自分を取り巻く人たちの思惑を認識しておくことは、「大人の常識」として必須だろうと思います。
相手の思惑を認識して、その上で関係を構築していく。
相手の思惑に応じた役割を与え、その前提で関係を構築していく。
そうすることで、自らの砦を築くことができます。
「思惑を利用する」「役割を与える」、それをもって「砦を築く」などという言い方はとてと高圧的で偉そうな印象を与えますが、
そこに成立する人間関係、
砦を構成する人間関係というのは、
主人と奴隷のような絶対的服従関係や王様と家来のような主従関係ではなく、
相手の自治や権利を保証する「本領安堵」のように、相手にメリットを与える一方、役割を期待する関係。
それが極まっていくと「御恩と奉公」のようなより主従関係に近い関係になることもありますが、基本は相互にメリットを認識し、そのメリットを介して関係が築かれるという意味で平等、フェアな関係です。
例えば、
桃太郎がきびだんごを与えて犬やキジ、猿をお供とし、チームという砦を作って「鬼退治」
に臨んだのと同じだといえばイメージしやすいでしょうか。
犬やキジ、猿は、桃太郎を恐れて子分になったわけでもなければ、人間性に惹かれて仲間になったわけでもありません。
彼らは「きびだんごが食べたい」という思惑に桃太郎が応えてくれた代わりに「お供」になったに過ぎず、
それは鎌倉時代において自分に忠誠を誓った武士に対して先祖伝来の土地の所有を保証した「本領安堵」に似ています。
ではなぜあれほど堅固な協力関係を構築し、
鬼退治という壮大なプロジェクトを達成できたかといえば、
そこに「鬼退治」というテーマが魅力的だったから。
桃太郎ではなく「鬼退治」というテーマが彼らを結びつけ、離反を招くことなくその達成を実現しました。
自分の人生を「帝王」として生きようとするなら、そんなふうにまわりの人の思惑を汲み、それに応え、そして彼らが惹きつけられる魅力的なテーマを掲げることが必要です。
とはいえ、
たまにそういう思惑を示すことなく、推し量ろうにも分からないまま相手が近づいてくることがあります。
この場合、「帝王学」が取るべき選択は2つしかありません。
一つは思惑が分からないので突っぱねる、
もう一つは思惑が分かるまで泳がせる(ほどほどの距離で付き合う)。
相手の考えていること、意図、思惑というのが分かればそれに応え、対策を打ち、備えることができますが、
分からなければその人間関係に丸腰で臨むことになります。
(無邪気に人間関係を築きたい場合はそれでも良いですが。)
よって、
思惑の分からない相手とは、人間関係を結ぶべきではない、
ということです。
ここで冒頭の「Don’t cross me」に話を戻すのですが、
もし「帝王」であれば、どのような相手であれ、当初認識していた(相手との間で共有していた)思惑を相手が外れるようなことは、一切許容するべきではなかろうと思います。
これはつまり、
「その相手から離れる」ということです。
当然、想定外のことを相手がした場合などにおいても、いったん離れて様子を見るほうが無難だろうと思います。
相手にDon’t cross me.と言って、相手がそれに従うだけのメリットを提供できるのであれば別ですが。
算命学では、
当初予定していた道筋を外れることは禍を招くといわれます。
何かを為そうとして取り組んできたことを途中で変えたり、
当初結んだ人間関係の形を変えることは、様々な混乱を招き足場を崩します。
愛人が、当初の関係の垣根を超えて正妻を目指す、みたいなのはその最骨頂のようなもの。
これを人間関係に当てはめた場合、
相手が勝手に思惑を変える分には相手に禍が起こるだけなので構わないかもしれませんが、
(いやそれもちょっと気の毒かもしれませんが)
それを許容しそのままその構図の中に相手を残すとなれば、今度は自分にその禍がやってきます。
よって、そこはやはり一つの「けじめ」として距離を置くのがよかろうと思います。
長々と書きましたが、
自分の人生の舵を握り、「帝王」として自分の人生を歩んでいこうと思うなら、
そういうパキッとした姿勢も必要だというお話でした。