天報星は胎児の星です。
一つの受精卵が胎内で人型を得て生まれる直前までの人間の姿を胎児と呼びますが、
十月十日で細胞から人間に育つその姿、
短期間に成長と変化を重ねるその姿こそが天報星の生き様を示すものといわれます。
例えば、
短期間で物事を習得することができるとか、
仕事がコロコロ変わるとか、
それをもって多芸多才といわれるような生き方こそが天報星らしさといわれ、
様々に変転変化する生き方や環境を推奨されたりします。
が、ふと気づいたのですが、
天報星の本質とは、
その急成長や変転変化のほうではなく、
それらが「無意識・無自覚」になされること、
エゴが皆無の状態にあってモノゴトが完全な形でなされていくこと、
…の方にあるのではないでしょうか。
そもそも、胎児というのは胎内にあって意識自覚のない時代。
すべては無意識の中で成されていき、そこに自身の人間としての意図や意思はありません。
人間としての意図意志を全く持たないことの代りに、全き天の意思が成されていく時代です。
それと同様に天報星を持つ人は、
それと意図することなく、
そこに介入することなく、
ほぼ無意識に、
自分に必要なモノや環境、状況、状態
を得ているのではないか?
と感じたのですがどうでしょう。
これは、
“自分が欲しい”モノや環境などとは異なります。
そして“得ることができる”というより“得ている”というほうが適切だろうと思います。
“自分が”という要素を除外した、
“自分に必要な”モノや環境を得ている。
“自分が意図した”モノや環境がそこに達成感を帯びることなくやってくる。
このあたり、
天報星のない人にはなかなか理解が及びにくい気もしますが、天報星の本質はそういう「全き無意識」、「全てを委ねる」ことにあるのではないかと思います。
天報星は最身弱の星です。
天馳星の一点、天極星の二点に次ぐ、三点というエネルギー数の小さな星。
それでいて天馳星や天極星のようにエゴのない健やかさをもって語られることがないのは、
その変転変化が動乱を呼びやすく、まわりから見ると「わがまま」とか「自分勝手」に映ることが大いに関係していそうですが、
なんといっても最身弱の星であり、
その本質は、「無意識」でありそこにエゴのない姿、在り方こそが真の姿であり、望まれる姿なのではないかと考えます。
そこにエゴはないですが、
天報星は無意識・無自覚にして人型に向かって猛スピードで成長します。
目指す型は自然の姿であり天の意思なのですが、
その自然の姿、天の意思に向かって力強く進むそのプロセスにおいて他者の介入を許容しない、
その点において他人から見るとそこにエゴがあるように感じられるのではないか?
よって天報星の「無意識・無自覚」があまりフォーカスされないのではないか。
実際、天報星は、
胎児がその臓器や器官を瞬く間に形作っていくのと同様に、同時に様々なことを実現していくことができます。
しかしそれは、自分の意図や意識とは別のところで実現されていくものなので、
当の本人にしてみればワープしたような、
実現した状況を得てそれを目の当たりにすると狐🦊につままれたような印象をもったりするものです。
何年か前に、
ひどく痛い目に合わされた上司というのがいて、
しかしそれをもって恨むという意識もなく過ごしていたのですが、
その上司が退職されるにあたり幹事として選んだお店が「大学の新歓コンペでもこれはないだろう」というほど酷いお店であったことがあります。
様々に気を配ったはずなのになぜこんなことになったのか?とそのときはすごく落ち込んだのですが、
その上司の仕打ちや様々に言い散らされた中傷を思い返せばまぁ自然の成り行きともいえるもので、なるほど、そういうことかと感じ入ったことがありました。
卑近な例で恐縮ですが、
これを言い換えると、
天報星の現実の作り方というのは無(精神)にあり、それが天報星の意識を介在することなく有(現実)として顕現されていく、
ということ。
意識を介在しないので、有(現実)を得てみるとなぜそんなことになったのか自分ではさっぱり分からないものの、
実のところその有(現実)は無(精神)がそのまま投影されたものなので、
結果をもってそれをよくよく眺めてみると、それは自分にとって有意なものである、ということです。
こうしたことを考えるに、
天報星は自意識によって動いたり、策略を練って何かをしたり、あるいは何かを目指して現実を生きたりしないほうが良いように思います。
変転変化、多芸多才といわれるけれど、
それを意識的に数多のことを達成していくというのはちょっと違う。
多分そんなふうに現実を生きるにはエネルギー数が低すぎますし。
思うに天報星の原動力は常に無意識にあり、
無意識を「動力」として動く星なのだろうと思います。
自分のエネルギーではなく自然の力、天の力をもって何かを実現していくのがその姿。
何かを「自分で」目指すのではなく、すべてを自然の流れに引き渡す姿がその本質であって、
自分は目の前のことに「自意識に寄ることなく」為していくことがやるべきことであり、
物事や環境というのはその先において勝手に動いていく。
その勝手に動く物事や環境を含めて天報星の在り方、とでもいうか。
ちなみに、
自意識や、ものを考える理性を介入させないその在り方は、それを側から見る人にしてみれば「わがまま」とか「自分勝手」と感じるかもしれませんが、
それは天報星が無から有に向かうその全きプロセスを理解できないからであって、
もっと高次の視点をもって眺めてみれば、唸るほどの整合性を見ることができるのではないかと思います。
週末、意図なく起こしたアクシデントが様々なことを詳かにした、ということがあり、
そのことを考えつつ上記のような考察に至った次第。
起こることを丁寧に振り返っていると、いろんなことに気づきます。
まだ検証中ですが、
ちょっとそのことを意識してしばらく過ごしてみようと思います。