金烏玉兎庵

運命の稼働

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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江戸より前の時代においては、
国を動かし思想を作り、哲学を世に出したエリートと一般大衆の差はあまりにも大きく、
物を考える力においても優秀すぎる人たちと無知なる人たちとの間をつなぐものがなかったという点は歴史を考える上でとても重要です。

江戸時代において識字率が劇的に向上したこと、
その時代において一般大衆を含む全国民が「役割を燃焼する」ことが可能な仕組みを作った、その仕組みこそが公士農工商身分制度であり、各々に割り当てられた「住居」はその役割の五行に応じた方角に割り当てられ、
オートマチックに「運命が稼働する」環境が施政者たる幕府によって整えられました。

現代において、
エリートと一般大衆の差は縮まったわけですが、一方でその「役割を燃焼する」「運命が稼働する」ための条件は忘れ去られ、各人にその選択が委ねられることになりました。
職業選択の自由」が、占領軍主導で与えられたわけですが、果たしてそれが正しかったのか?それは、日本という国一国の運命のみならず、個人の運命においても、必ずしも正しいものではなかったのではないか?と感じます。

自らの役割を知らず、
与えられた運命を認識することなく、
無為に時を過ごしてしまうことの不毛さ。
艱難こそが運命の稼働条件であることを知らず生温い環境ばかりを要求する昨今の風潮というのは、人材を育むことを「偶然」に委ねながら、その確率を決定的に限定することに他ならなかったりします。

各人に役割があり、
各人が役割を果たすにあたっては「和合」が必ずしもプラスに機能するわけではないということ。
「闘争」によって生まれるものがあり、平和な現代の時代にあっていかに「効果的な闘争」をプロデュースするか、ということの重要性を、このところよく感じます。

どのような条件、どのような環境において運命が稼働するか?
ということについて、
世の中の半分くらいのひとは、「闘争」の環境を必要としていて、それを平和なかたちで用意することは、世の人がその本分を発揮するにあたり、必要なことなのではないかな、と考えたりします。

世の中も、少しずつ変わっていくかも。楽しみです。

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