先日、「肥料になる」人の話を書きました。
宿命の鋳型どおりに生きていないと、誰かの肥料になるのでは?というものです。
あれからちょっと学びを振り返っていましたら、
例えば虚が強い宿命の人や偏りの強い人がとてもパワフルな人生になる、その源泉はまわりにいる「身強なのに身強らしく生きていない人」だという記述を見つけました。
例えば、
異常干支がいくつも並ぶような人とか(ジャック・ウェルチがそうでしたね)、
最身弱の星が3つ並ぶような人、
鳳蘭局の人
…というのはとてもパワフルな生き方に向かうことがありますが、これは、どうも「身強なのに身強らしく生きていない人」からエネルギーを吸い取るようです。
逆にいえば、身強なのに身強らしく生きていない人というのは陰転するわけですが、陰転して使いきれなかったエネルギーは、そういう人たちに吸い取られてしまうということなんだろうと思います。
身強の人というのは、人を率いて使っていくことが役割の人たちです。
現実社会に足場を得て、現実世界を動かしていくことが役割。
なのに、それをしない人というのは、肥料になるのかもしれません。
もちろん、身強の人たちも最初から人を率いていけるわけではなく、現実を動かしていくまでにはプロセスがあり、苦労や試練や困難があり、それを超えていく必要があるわけで、生まれたときからそれができるわけではありません。
よって、「人を率いる」とか「現実を動かす」ということが「出来ない」ことをもって陰転とか肥料になるということではなく、それを心のどこかで諦めた場合とか放棄した場合にそういうことになるのではないかな?と考えます。
例えば大運の6旬目に入ったばかりで他界する人というのがいます。
そういう人は、おそらく6旬目に入ったときにもう「宿命を消化しそうにない」ことが確定していて、だから6旬目を終えることを待たずに、6旬目に入った時点で結果が出てしまうのではないか?と感じる事例がいくつかありました。
これは、東洋思想の世界では、時間は循環するものであり、時間は直線的に伸びているのではなくただいま現在にすべてがあるので、6旬目に入った時点でもうその人は「方向転換をすることはない=宿命を消化しない」ということが確定してしまう、ということなのではないかと思います。
これを身強の消化の話でいえば、
心構えや方向性として「身強の役割を果たす」、人を率いたり現実を動かしたりする、そういうことをしないと決めた人は、その瞬間から「宿命を消化しない身強の人」となり、肥料になるんじゃないかと思ったのですがいかがでしょうか。
もちろん、肥料にする側、先に挙げた3つのパターン(異常干支がたくさんあるとか、最身弱の星が3つ並ぶとか、鳳蘭局とか)の側も、その宿命をきっちり生きていなければ肥料をもらえることはないのだと思います。
このあたりは前に書いた「宿命の鋳型どおり」に生きていなければ肥料になるという仮説のとおり。
未検証ですが、そんなことを考えたので書いておきます。
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