金烏玉兎庵

偏りと宿命中殺と「エゴ滅却プログラム」

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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最近よく考えるんですが、宿命中殺とか格に入っているとかものすごく偏りがあるとかいうような命式の人というのは、やはり徹底的に「エゴを滅却する」ということに真剣に取り組んだほうが良いのだろうと思います。

自分でプログラムを作って一年か二年くらい徹底的にエゴを封じる訓練をする、みたいな。

従化五格が身弱をもって最上とする、貫索石門を含むと格が壊れるといわれるのは、エゴを出すことなく自分を棚に上げて、徹底的にその偏りを生きることで初めて格が生きる、その格の本質的な姿を示すことができるからだろうと思います。

とある算命学の先生が、格は信用ならんと格を教えることをやめてしまわれたと聞いたのですが、これは恐らく今のような「個性を出せ!」「自分を大事に!」みたいな時代においては、たとえ身弱の人であっても格の偏りの本質を生きることができる人が少ないからなのではないかと思ったのですがいかがでしょうか。

偏りの強い人がエゴを丸出しにすると、常人の域を超えてその個性が発揮されるので、壮大に「自分勝手」と叩かれますし、宿命に中殺のある人がエゴで生きていこうとすると、普通の人には理解できない世界まで行ってしまうので「変な人」のレッテルを貼られて居場所や立場を失います。

一方、偏りの強い命式の人が、エゴを棚に上げてしまうことができれば、その偏りを昇華することができ、そこに「自分」がないのでまわりの人は素直にその成果を認めることができます。

宿命に中殺がある人も、エゴをどこかにおいてそのスケールを生きることができれば、大きな世界で活躍することができ、そこに「自分」がないので邪魔をされたり叩かれたりせずにすみます。

最近のアメリカナイズされた公平的価値観の世の中においては、「エゴも個性」と許容しましょう的な雰囲気があるので表立ってエゴの発揮が叩かれることは少なくなりましたが、本質的に人の世の中においては「エゴ」というのは忌み嫌われるものです。

よって、早い段階で「エゴ滅却プログラム」を実行してしまうのが良かろうと思ったのですがどうでしょう。

なお、本来、格とか中殺がある人というのはそれを消化して生きるために「まわりの人に影響されない」ことが望まれるといわれます。

親兄弟など、家族との縁も薄いほうがその偏りある宿命や中殺のある宿命を活かしやすいといわれたりします。

これは、相手が身近な人であればあるほどエゴが露呈しやすく、まわりに近しい人しかいないとエゴが際限なく肥大化してしまうからなのだろうと思います。

これは、エゴに連なる要素(身強とか木性の星とか)を否定するものではなく、この「ふつうの人」で構成されている世の中で穏当に偏りや中殺を活かすことを目指す場合には、エゴを抑制するのが良いだろうというお話です。

そのほうが、「ふつうの人」の中に活躍の場を見つけやすくなるだろういうことです。

これも一つの一極二元の考え方で、宿命の消化、星の要素の発揮も画一的、一方向になされるものではないことの現れであるように思います。

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