金烏玉兎庵

新型コロナ問題について考えたこと(私見です)

このところ「コロナ対策」の一環でキャンセルの連絡をいただいております。
皆さま「直前で申し訳ない」という趣旨のことを添えてくださるのですが、お気になさらずキャンセルされてくださいませ。
その時間は私にとっては勉強の時間になりますのでまったく問題ございません。
むしろ、気にさせてしまってこちらこそ申し訳ない限りです。

そんな中ではありますが、昨日もご相談にお見えになった方がおられ、その方から素敵な名前のネイルオイルをいただきました。

その名も『24:45(ニイヨンヨンゴ)』
眠る前にリラックスできる香りのネイルオイルでオーガニック素材で出来ているのでリップオイルなのにも使えるそう。
素敵なお菓子やバスソルトなど色々に選んで詰め込んだお礼と共に、健やかな夜を楽しめそうなお品をありがとうございました。

24:45。
これは時間を示しているわけですが、
東洋思想を学んでいると、
時間一つからいろんなものを導き出せるのが面白いなと思います。

24時45分といえば東洋思想では子の刻の終わり頃、学びが熟し極まる時間です。
また、色は黒(学びの水性は「青」ではなく「黒」です)。
凍てつく寒さの冬であり、方位は北、
奥の方に潜みつつ世の中を眺める位置。
本能は習得、学びを極めていくところですが、
24:45であればその極を超え、少しずつ開いていく、現実的なことにも向かい始める風情が感じられます。

そういえば、今年は子年なので、今年というテーマにもピタリとはまる時間ともいえますね。

さて、お越しくださる方もおられれば、「気になる情報」をお寄せくださる方もおられます。
昨日から考えているのはそのお寄せいただいた情報、ブログについてです。

そのブログの
『中国では、2020年になる前から「 2020年は何か不吉がことが続きそうだ」と話され続けていました。』
という冒頭から、
『その時の「王」が、宇宙の意志に従うことができず、間違いや欠点がある場合、宇宙は奇妙な方法で警告し、非難する。』
に至る内容が何を示すのか?
こちら:https://indeep.jp/what-will-happen-in-gengzi-year-2020/

庚子の今年、庚が変革を示し子がその始まりであるなら、始まる前に既存のものは壊れねばならないわけで、様々に破壊的な出来事が起こるのも当然の成り行きではありますが、
その破壊の先にある始まりとは何なのか?

ちょっと話は変わりますが、
世の中には「それを極めても仕方ない」みたいな仕事があります。
その仕事にしがみつくのは安定収入のためだけであって、その仕事を続けたところで成長もなく実りもなく、みたいな仕事です。
例えば…と書くのは憚られますが、初めて会った人に誇れないなら多分それはそういう類の仕事だろうと思います。

このところ、昨今の働き方改革、および年金受給年齢引き上げの影響で定年年齢が伸びている中で、「仕事にしがみつく」人の多さ、自分の生きがいや夢を先延ばしにする人の多さが気になっているのですが、
個人的に、今回のような「命の危機」を目の当たりにすると、
「自分の人生」をきちんと前向きに考える、
「自分の命」を有効に使う、
「生まれてきた役割」をこの世界で果たしていく、
「自分が生きた証」をこの世界に残していく、
ということを真剣に考える人が増えるのではないかと思っています。

私が自分の人生をきちんと生き始めたのは2001年の9.11がきっかけでした。
私のまわりには2011年の3.11をきっかけに人生を大きく方向転換した人がたくさんいます。
いずれもその大きな事件、災害により「命と向き合う」ことを促されたことの結果なわけですが、今回の件というのは、それらの大事件に寄っても変わらなかった人たちに突きつけられた「変化への引導」なのではないか?
…と感じているのですがいかがでしょうか。

引用したブログに話を戻せば、
「王」というのは一般的な見方をすれば例えば世界の覇権を握るトランプ大統領なり習近平首席、あるいは日本でいえば安倍首相であったりというふうにも読めるのですが、
人間は誰しもが己の身、己の人生の「王」であり、その「王」が自らの役目を忘れ日々の糧のために役割も志も省みることなく過ごしているとすれば、
その「王」に覚醒を促すべく広く「命の危機」が突きつけられている今の状況にもうなづけるものがあります。

もちろん、このような大きな出来事、命を落とされた方も多くおられる中でこのような指摘が「死者に鞭打つ」印象を与えたとすればお詫びをするところなのですが、
それでもなお、この事態の意味に思いを馳せれば、

この破壊の先にある始まりとは、
一人一人が「自分の人生の王である」という認識の始まり、
一人一人が己の人生を生き、その人生の意味役割を生きることの始まり、
なのではないかと強く感じています。

前回の庚子年はアフリカで奴隷のように支配されていた人たちが覚醒しました。
今回の庚子年は先進国で奴隷のように生きている人たちが覚醒する番である、ということなのではないか、ということです。

※私見です。気を悪くされた方がおられましたら、伏してお詫び申し上げます。

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