土日にちょっと触れました、海外ドラマ『スキャンダル』の話の続きです。
続き、というか、もう一つ書いておきたいことがありましたので、書いておきます。
以下ネタバレを含みますのでご注意くださいませ。
さて、このドラマを観ていて思ったのですが、
人間、罪なしに、大成することなんてないんじゃないか?と思ったのですがいかがでしょうか。
あるいは、大きな罪、大きな十字架を背負っている人ほど大きく大成するのではないか。
なぜそう思ったかといえば、
このドラマの中で大統領選(フィッツ/このドラマの大統領役 にとっては二期目の大統領選)に出馬する3人がすべて、実は大きな罪を犯した過去を持っているという設定がけっこう衝撃的で、それについて何の意図もなくそんな設定にするはずもないので、それはなぜだろう?と考えていて、上記のような考えに至った次第。
大罪を背負っているからこそ、強くなれる、というのが、実は真理なのではないか?
…というか。
日本にも、「艱難汝を玉にす」とか「谷深ければ山高し」という言葉があります。
(谷深ければ~のほうは投資の格言ですが)
とはいえ、日本におけるこれらの言葉はなんとなく、「潔癖な努力」とか「濁りない深淵」のようなものとセットで語られる傾向にあり、
一般的に日本においてこうした言葉というのは美徳として語られることが多く、
これらの言葉が「罪」とか「悪事」というものがその後の成功につながるような使われ方するのはとんと聞いたことがありません。
なので、日本においては「罪や悪事が成功に不可欠なのでは?」などと書くと大いなる違和感を持たれる方が多いだろうと思います。
しかし例えば卑近な例で、
「この人を拒絶する」という一つの罪を犯した場合、その拒絶を続ける限り、たぶんその人は強くなれるのだろうと思います。
このことは、円満というバランスではなく「拒絶する」というアンバランスをつくることで、全身力、推進力を得る、という言い方もできます。
本質的に大成することができる人の裏には常に大きな罪があるように思います。
何か大きな罪を犯し悪事を働き、それにより神様か罪の対象かは別にして、何かしらの誓いを立て、
その誓いという足かせを抱えた人が、その誓いの足かせにより自分を律していく。
そういう人が、本質的な大成に向かうのではないか?と考えたのですがいかがでしょうか。
(罪、というのが犯罪とは限らず、例えば七つの大罪にあるような貪食や淫蕩、強欲、悲嘆、怠惰、虚栄心、傲慢、それに加えて貧困も一つの罪ととらえる考え方があります)
ちなみに、大成する人というのはある面ではとても我儘であったり変な人であったりします。
というか、大成している人で我儘ではない人に私は会ったことがありません。
もちろん、そういう大成している我儘な人たちも、
いわゆる一般大衆の目があるところではある程度抑制的にしていたりはします。
出入りの業者や取引先の前では、人格者然としていたりもしますけれど、家族や側近ばかりになると、一転ものすごく変な人、非常識な人になる向が強いように思います。つまり、とても偏りが大きく、ある種の罪を犯している、ということです。
※「非常識」とは、凡庸ではないというだけで、その馬にある判断の根物を凡人には理解できないので「非常識」というふうに見えるだろう、ということです。
これも一つのアンバランスによる前進力なのだろうと思います。
罪の話に戻します。
普通の人、大した悪いこともせず、大きく人生の谷間を経験することもなく、道を逸れることもなく生きてきた人というのは、
恐らく大成することはありません。
大成への道というのは、困難や横やり、批判や中傷、落とし穴などが其処此処にあるもので、そういう「普通の人」「罪を犯したことがない人」「道を逸れたことがない人」というのは、様々に障害のある大成への道を歩み切ることは難しいだろうと思います。
例えば算命学でいう八相局というのは陽占の星図に同質五行の星しかない星図のことですが、
この八相局の人たちというのは多かれ少なかれ因縁をもって生まれてきているといわれます。
言い換えれば、罪をもって生まれてきているともいえるのですが、おそらくは、そういう罪が彼らを飛躍させるのだろうと思われ、根っことしては同じことなのかな、と思いました。
これは、決して罪を犯すことを進めるものでは決してないのですが、
例えば何かをしようとするときに「これは罪になるかも?」と過度に自分を抑制するよりも、やってみてそれにより苦しい思いをすることになったとしても、それを糧にして飛躍することもできるのではないか?
ということです。
大成するとか、
大成とまで言わずとも、スケール大きく生きるとは、
そういうことなのではないかな、と思いました。