自分という核から、世界をどんどん広げていく時期と、
自分という核をとりまくあれこれを、どんどんそぎ落として研ぎ澄ませていく時期というのは、
出会う人や関わる人の種類ががらりと異なっていくものです。
この境目というのは納音で、
対外的な関わり、仕事やオモテ向きの事柄などにおいては、
いわゆる東方納音がめぐる30歳を境として、自分の核がくっきりとしていく方向に向かい始めます。
つまり、自分の仕事やら対外的な関わりというのが少しずつ研ぎ澄まされていき、
いらないものや不要なもの、無意味な人間関係などから離れていく。
…このことは、前に「骨折」と絡めて書いたことがあるので覚えておられる方も多いと思います。
(納音を過ぎても自分の世界を研ぎ澄ませる方向に向かわないでいると、骨折したりします、というお話を前に書きました。)
そのことは、理解していたのですが、
このところ、自分の人間関係の嗜好?というのが、以前よりもかなりくっきりしてきたことを眺めつつ、
ハタと気づいたのですが、
これは西方納音を過ぎたことが影響しているのかな?と思ったのですがどうでしょうか。
人間関係の嗜好、と書きましたが、
使うお店とか、読む本とか、買う服とか、そういう諸々が、
前よりもずっと拘りの強いもの(≠豪華で高級)になってきた感じがあります。
さらにいえば、人間関係において、
それまで親しかった人の「その人の裏の顔」みたいなものに気づき始める感じもあります。
「あ、この人はこんなふうに考えてたんだな」と気づいて気持ちが離れていく、みたいな。
そして、そういう拘りだったり気づきの先において、
自分の在り方、処し方がクリアに、そして尖鋭化していく感じもまたあります。
よく西方納音は離婚する、ということが言われますけれど、
これも、そういう「拘り」や「相手の裏側に気づく」ということの先に起こるものなのかな、
など、考えました。
読む本の拘り、という意味でいえば、
立体的な、高次元、多面的な思考に誘導してくれる本を好んで読むようになったように思います。
このあたりは、
算命学がとても立体的、高次元、多面的な構造の学問で、
それを学んでいると、立体的、高次元、多面的な思考の枠組みを得ることができるので、
その枠組みをもって書籍などを読んでいて、それが平坦で平面的に過ぎると、
ひどく退屈というか上滑りなものに感じられるようになったということなのですが、
面白いことに、そういう立体的な枠組みをもって立体的な本を読み、そういう思考で世の中を眺めていると、物事がとても立体的に理解できるようになる感じがあります。
複雑な因果律のつながりが見える、風が吹けば桶屋が儲かるその風と桶の関係が感じられる、とでもいうか。
それがなんとも面白く、
そして、自分の思考をクリアにしてくれる感じがあって、これも西方納音を超えたからなのかな?などと考えているところです。
ちなみに、今読んでいるのは「南方マンダラ」。
これは知の巨人、南方熊楠による思想書なのですが、
算命学に通じる記載、思考というのが多く収録されていてとても面白いです。
算命学に通じる点をさわりのあたりから抜き出すと、
・・・・・
熊楠の考えでは「コト」は「心」と「モノ」が交わるところに生まれる。
例えば、建築などというのも「コト」である。
純粋なただ「心」だけのものとか、純粋にただ「モノ」だけのものというのは、人間の世界にとっては意味をもたず、あらゆるものが「心」と「モノ」の交わり合うところに生まれる「コト」として現象化している。
「心界」から独立した、純粋な「モノ界」などというものは存在できない。
しかも、「心界」における運動は「モノ界」の運動をつかさどっているものとは、ちがう流れと原理に従っている。
「心界」と「モノ界」から「モノ心相反応してコトが生じる」
・・・・・
というあたりは、陰占(モノ)が心(日干)を通して陽占(感じられるコト)になっていく姿を見事に記しているように感じられます。
その思考の図というのをみても、一極二元そのもの。
但し、算命学よりも広い枠組み、例えば真言仏教の世界観など幅広い智慧の集積の中でこうしたことが語られているので、「東洋人の思考法」というのを掴むのに役立つように思います。
南方熊楠は江戸末期に生まれ昭和初期まで生きた人ですが、英米への留学経験がありつつも、
いわゆる「東洋人の思考法」というのを誇り高く説いているという点においても一読の価値ありです。
いわゆるその時期の一般的な文化人が西洋かぶれ、西洋文化礼賛のきらいがあるのに対して、
熊楠は西洋的思考の限界を喝破し、東洋的思考の可能性を奥深く説いているという点において、原典にみえる高尾宗家のあり方に共通するものを感じました。