本日は途中で中断していた「維摩経」の続きを読んでいます。
「維摩経」というのは仏教の経典ですが、二幕三場から成るドラマ構成の物語風の読みものなので、仏教初心者でも読みやすい経典です。
仏教といえば、出家をされたお坊さんのものであるように思いがちですけれど、
維摩経では在家にあって完全な叡智を備え悟りをひらくことができること、
日常生活の中において仏教思想を体現しながら生きることができることなどが説かれているので、
処世術的な面もあり、単なる「お勉強」ではなく、実際の生活に活かすものとして読むことができます。
仏教の経典を読むことと算命学を学ぶことにどういう関係があるかといえば、
一つには、東洋思想の根本概念である中庸の思想を仏教という側面から学ぶことで、立体的に理解することができ、それが算命学の奥深い理解にもつながること、
そして二つ目の理由を挙げれば、算命学の技術ばかりを深めてしまうと偏りが生じてしまうので、それによって人生が不安定になってしまうことがある、それを回避するため、ということになります。
二つに分けて書きましたけれど、つまるところ「中庸を保つ」という目的のために現在、維摩経を読んでいます。
法華経から読もうかと思っていたのですが、維摩経のほうが読みやすいと先生からアドバイスをいただいたので維摩経から。
算命学の技術をせっせと深めていくと、いろんなことを読み解くことができるようになります。
人の性質も分かるし、その人のやっていることの顛末も分かるようになります。
そうすると、どこかで驕りが出てきてしまう、ときに分かったことをもって武器にしてしまうようなことがあります。
十分気を付けてはいますが、そういう驕りの兆候は、人のことが分かるのと同様に自分で分かるものなので、
その兆候を感じた時点で勉強を一休みして、自分を振り返り、自分を正していく、ということに取り組むことにしています。
但し、戌亥天中殺などは思想を理解するのが早い反面、深く入り込んでしまう傾向があるので、本来なら人との接点がある生活の中で読んだほうが良いのだと思うのですが、今はこういう状況なので致し方なく、ちょっとずつ休憩をしながら読んでいます。
(日にちを明けてしまうと集中が途絶えてしまって、理解が中途半端になる…ので本日中に読み切ります)
さらにいえば、これも戌亥天中殺独特なのかもしれないのですが、
仏教の経典に限らず、思想書を読んでいると、スーッとその美しい世界に入ることができ、見渡す景色や目に映るものがことごとく美しく見えるようになるのですが、そういう状態のときに友人から電話がかかってきたり、仕事にいったりすると、一気に現実に引き戻される、そのギャップというか乖離というか、についていけなくなることがあります笑
それでも算命学のような武器になりうる学問を学ぶ上では、
定期的に、中庸、ニュートラルに戻るための読書というのは不可欠かな、と思っています。
音声や動画というのもいいのですが、一番入り込みやすいのはやはり読書です。
脳内にダイレクトに入ってくる感じがあります。
脳内に入ってきて、脳内で組み立てられ、構築されていく感じ。
これは龍高星の立体思考によるのかもしれませんが、動画や音声よりも、読書のほうが圧倒的に立体的理解につながるように思います。
ちなみに、維摩経を読んでいて衝撃を受けたのが、
「芭蕉」がバナナ🍌という意味だったこと!
Wikiを調べたら、松尾芭蕉の名前もこの「芭蕉(バナナ)」からとっていて、門人の李下から芭蕉の株を贈られたことに因むそう。
芭蕉の晩年の俳諧は老荘思想に向かっていたといわれ、算命学ともここでつながります。
ランダムな読書でもあちこちつながるのが面白いです。
以下、昨日の投稿の補足です。
昨日梅の写真とともに上げた投稿で、「同じことをしていると同じ次元に留まるので~」ということを書きましたが、
例えば貫索星や玉堂星というのは、同じ次元を突き詰める、深める星なので、次元を勝手に変えないほうが良い星です。
貫索星でいえば、同じことをこんこんとやって職人技を身に着ける、みたいな動きが良いですし、
玉堂星でいえば、同じ先生についてこんこんと深めていくのが良いです。
何かを学ぶときのアプローチや、
いわゆるハウツー本とか自己啓発本、成功本、金持ち本(金持ちになれる!みたいな本)というのは、
星により向き不向きがありますので、何かを始めるときには星の活かし方と相談したほうが良いように思います。
私は、まずやってみて、やりながら考える、やることで思考がクリアになっていくのでそうしていますが、
先に完成図がないと動けない人というのもいますし、他力本願的にやっていくほうが向く人もいます。