※閲覧注意!親切の功罪についてのセンシティブな内容を含みます。
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「親切な人」
というのは「いい人」のように言われたりしますが、
例えば職場においてやたらと「親切」で、何かにつけて部を越境して「お手伝い」をしているような人というのは、合理主義の進んだ組織などではまず評価されないものであったりします。
良くて「便利屋」、
普通で「お節介」、
悪くすれば「自分の本分が分かっていないダメな人」という扱いを受けるなど。
これは、組織においてはそれぞれに役割があり、その役割を果たすことが本分であり、
各々がその本分を果たすことで組織が初めて機能することによります。
組織でなく、もっと日常に近いところではどうか?
いろんな考え方があるとは思うのですが、
人生で成し遂げるべきものがあるという前提で考えれば、
○○のお手伝い、とか、
○○の協力、とか、
○○の役員(無償奉仕の役員)などというのも、
それを担っている人たちからは喜ばれるかもしれませんが、
多くの場合、人生における有意の「本分」になることはあまりありません。
(もちろんそこに何かしら、
ハウツーを学ぶとか、
子育てが絡んでいるとか、
あるいは次元的に体験してみるなど、別の目的もある場合は別ですが)
よって、
果たすべき役割があり、
向かうべき人生のゴールがある人にとっては、
親切やお手伝いよりも、
まずやるべきことは「本分を果たすこと」であり、
基本的に親切やお手伝いというのはプラスαでやるのがよく、その場合であっても「本分」の延長線上にあることをするのが良いように思います。
親切とか人助けの弊害というのは、
それをする側にしてみれば、
それをしていることで「何かをしている」感を感じることができ、それが「自分の本分」でないことに気づくのが遅れ、本来の道から逸れていくことにつながりますし、
それをされる側にしてみれば、
自力で何かをする機会を奪われ、
誰かの助けに甘えることになり、
本来歩むべき学びのプロセスをショートカットしてしまうことにつながったりします。
(事業にせよ団体にせよ、人の善意に頼ったモデルというのは脆弱になるものでもあります。)
なので、結局のところ、
人の仕事、人の人生には、
本来介入するべきではない、
というのが真実だろうと思います。
それよりも大事なのは、
自分の本分を知り、それを全うすること。
以下、ちょっと怖いことを書きます。
東洋思想では、他人に無闇に介入しすぎると禍を呼ぶといわれます。
例えば病気や怪我、あるいは何か・誰かを失うなど。
つまり自分の本分を超えた他人の人生への介入はその「対価」として何かを損ない失うことにつながる、ということです。
これは、その介入(親切やお手伝い)が一見良いものに見えたてしても、
結果として他人の人生を歪めてしまうことによります。
善意とか、親切というのは案外と難しいものです。
世の中に「全き善」というのはないもので、
何にせよ中庸を得ていなければ、刃にも毒にもなり得ます。
挙げれば様々にちょっと怖い事例というのもあるのですが、正直、書くのも憚られるので控えるものの、
その意味について、少なくとも算命学を学び人の命式を見るということをする場合には、よくよく考えておく必要があるだろうと思いますし、
そうでなくても、その親切や人助けが、何に起因し何を目的とするものなのか、自覚して、コトの因果について思いを巡らせておくことは必要なのではないかと感じています。