金烏玉兎庵

螺旋のedgeを突っ走りつづける(雑記)

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

うちの会社のOBに、
同じような経歴で共に超お金持ちでありながら対照的な2人がいます。

 

この2人、
国内金融機関を経て外資系金融機関に転じ、
その後独立して何百億というお金を扱って、本を何冊も出し、
今は「世の中の人の幸せ」のための会社を経営しているという点で共通しているのですが、

1人はとても温厚で幸せそうである一方、
もう1人はちょっと神経質そうな空気をまとい、恐らくはこの人も何百億規模の資産をお持ちではあるのですが、あまり幸せそうに見えません。

 

前者の方は世の中の人の自己実現や生きがいを感じることで得られる幸せを提供することを目指し、
後者の方は世の中の人の資産を増やすことで得られる幸せのための資産構築の機会を提供することを目指しているのですが、

それぞれを担っているこの2人の人の様子を比べてみれば、幸せってお金ではないんだろうなぁと思ったりします。

 

いろいろと、
考えさせられます。

 

前者の方に最近お会いした友人が、
その方の言葉として、
「edgeを体験しない限り中庸は語れない」
という言葉を数日前に紹介していました。

 

以来、
edgeとは?
ということを考えていて、
昨日もそんな話をしていたのですが、

多分、人が既に歩いたedgeとか、既に誰かが取り組んだedgeというのは、
それはそれとして参考にするべきものではあるのですが、
自分は自分のedgeを見つけてガツンと取り組んでいく必要があるのだろうと思いました。

 

前に、
螺旋のエッジを突っ走ることが中庸である
ということを書いたことがありますが、

自分がとことん好きなこと、
自分の心を捉えて離さないものを徹底的に追求し、掘り下げていくことがedgeを走ることであり、
そのedgeを走り続ける先で、
世のため人のためになることに出会える「かもしれない」のだろうな、
と、ふと今日思い至りました。

 

ダイレクトに「世のため人のため」を目指すのでなく、
自分のedgeを突っ走る先に、「もしかしたら」世のため人のため、というのがあるかもしれない、的な。

 

そして、
その「もしかしたら」「かもしれない」カタチで出会う「世のため人のため」のほうが、
ダイレクトに「世のため人のため」を目指した先にあるものよりも、
スケールが大きくてより広い世界の「世のため人のため」になるのではないか。

 

まとまりのない文章で恐縮ですが、
そんなことを考えた次第。

モバイルバージョンを終了