金烏玉兎庵

車騎牽牛は戦い続けることで戦い方を覚える

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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車騎牽牛のような金性の星が強いと、
言葉が高圧的になりがちです。

 

なんとなく言葉が強い、
なんとなく攻撃的。

ちょっと近づき難くもあり、敬遠されたりもしがちなそういう人たちですが、
そういう強い雰囲気でものを言う人には2種類います。

 

感情に任せて言う人と、
腹を据えて言う人と。

 

感情に任せて言う人は、
その強いことの反動として起こることに狼狽し衰運に向かうものですが、
腹を据えて言う人というのは、
その強いことの反動として起こる結果に覚悟ができているもので、
そういう人はたいてい開運に向かうように思いますがいかがでしょうか。

 

なぜそんなことを書いているかといえば、
40歳を過ぎ、このところNOを言うときは腹を据えて言うようになっててからというもの、
私自身がなんとなく「開運」に向かっているような気がするからです。

 

気のせいかもしれませんが、
このところ、
割とあちこちで恵まれているな、と思うことが多くあります。

 

振り返ってみると、
「機運に恵まれ始めたな」
ということが起こり始めたそのきっかけは、
NOをきちんとNOといい、
立場身分を賭してきちんと戦い始めたからであるような気がします。

 

思えばこの一年くらい、
私は公私にわたって戦っています。

 

例えば、
既得権益にしがみつく偉い人たちと戦い、
言い訳ばかりで働かない同僚と戦い、
セクハラ男と戦い、
無駄な人間関係と戦い、
亜流の評論家もどきと戦い…

 

ハタから見れば、
「組織人としてやばくない?」
と思われそうな戦いや、
和合性の高い人たちからは、
「いや、それは人としてどうなの?」と、糾弾されそうな戦いもあるように見えるかもしれませんが、
自分の中に確固とした「自分の正義」が確立されてくると、
むしろ戦うことは必然にもなります。

 

自分の正義が確立される前、
自分の足場がしっかりする前に戦うと、
闇雲に戦ってしまって多くを失ってしまったりもしますが、
昨日も書いたように、
きちんと戦い続けていれば、どこに急所があり、どこを外して戦えば良いかが分かるようにもなり、そこを外してきちんと「義のある戦い」ができるようにもなります。

 

私は、こうして戦い始めて俄然物事が前向きに展開し始めた感じがあります。

 

ちなみに、
急所とは組織でいえば自分の人事権を握るところ、
友人知人関係でいえば自分にとって本当に大切な人たちのことをいい、
そこを攻撃しなければ、基本的に戦ってもそれほど困ったことにはならないように思います。

 

若い頃は、
リアル人事権者とまともに戦って左遷されたり、
大事な人を罵倒して失ったりしましたけれど、
そういう戦いがあったからこそ、
効果的で生産的な、自分の覚悟を貫くための正しい戦い方を覚えたともいえます。

 

そんなわけで、
かねがね書いていることですが、
車騎牽牛がある人、それらが強い人というのは、
やはり戦った方が良いように思います。

 

最も重視すべきは、
この世界でどんな役割を果たすのか?
ということであり、
それを実現するためにはきちんと戦うことも必要で、
そうやって戦って、傷つきながら戦い方を覚えることで、きちんと正義のために戦うことができるようになるように思います。

 

なお、
戦うべきところで戦うことは、中庸を得ています。
中庸とは、何事にも円満を目指すものではありません。
衝突を恐れて円満を維持することの方が、中庸を欠く、ということもあります。

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