星の陽転という場合に大事なのは、前向きな考え、主体的な姿勢、能動的な在り方であるといわれます。
確かに、後ろ向きな考え、逃げの姿勢というのは何事であれ陰転するというのはごもっともな話で、
「前向きな考え、主体的な姿勢、能動的な在り方」が大事だといわれると、
うんうん、と頷いて、前向きに、主体的に、能動的に頑張ってしまうところなのですけれど、
よくよく算命学を紐解くと、
①前向きな考え
②主体的な姿勢
③能動的な在り方
…という三つを全部ひっくるめて一緒にしてしまうのはちょっと違うということに気づきます。
当然に、「前向きな考え」というのは大事なのですけれど、
主体的な姿勢、能動的な姿勢というのは、必ずしもすべての人に必要なものではありません。
他人の力を借りたほうが良い人、
他人の意向に従ったほうが良い人、
他人の思考に影響を及ぼすという形で世の中に関わったほうが良い人、
というのもおられて、
世の中の実際を眺めれば、
十把一絡げに誰もが「前向きな考え、主体的な姿勢、能動的な在り方」を採用してはうまく立ち行かないものだということが分かります。
このあたり、西洋文化に寄った日本の教育委員会制度及びそれに紐づく教育基本方針の弊害だと思うのですが、
子供のころからせっせと「主体的に」「能動的に」と指導されるせいで、
いわゆる「成績優秀」な人たちというのは、そのほとんどが「主体的に」「能動的に」生きることを志向されています。
ここで「成績優秀な人たち」とくくったのは、
「成績優秀な人たち」というのが学校において「かくあるべし」とされることに忠実で、
さらにその「かくあるべし」を立派に達成できる人たちであり、
多くの場合、こういう人たちはエリートと呼ばれる種類の人たちなのですけれど、
だからこそ「自分の本質的な在り方」を顧みることなく「かくあるべし」とされる「主体的」「能動的」な生き方に向かってしまっていることが多くあるためです。
こういう書き方をすると、
「自分」を信奉し、主体的であることを人生の大方針と掲げ、能動的でなければ自分の人生ではないと考える人たちからはお叱りを受けるだろうと思うのですが、
あるいは、
自分の子供の主体性を育て、能動的に何かに向かうべく教育している親御さんからは「自分の子供を他人の配下にするのか」など非難されそうな気もするのですが、
人間にはそれぞれ役目というものがあって、
その役目を果たすことで幸せを感じ、穏当に生きていくことができるものなので、
役割に合わないことを長く続けていると早晩どこかにひずみが生じ、それを無視していると体にひずみが現れたりするもの。
あるいは、
少し前に話題になった「全員が白雪姫を演じる発表会」みたいな教育というのは、子供の個性をつぶし、親の期待と願望をおしつけることになり、
子供の成長に大きな影を落とすことにもなりかねないものでもあります。
私たちの世代は、「受動的」「従属的」という言葉にネガティブなものを感じる傾向にあるのですが、
恐らくこれは動乱期という下剋上の時代に社会人になったことが大きく影響しているように思います。
けれど、今のような物価が上がり、好調な経済の時代においては(いろいろありますが、経済、好調ですよね。)
受動的・従属的という在り方が功を奏することもあり、無駄に「主体的」「能動的」であるほうがいろいろ苦しいことというのもあります。
そもそも、「受動的」という言葉には、物事や考え、アイディアなどを受け取ってそれを活かすとか、
「従属的」という言葉には、自然の摂理に従って生きるとか、そういう意味もあるわけで、
世の中一般でいわれるようなネガティブな意味ばかりではありませんし。
なぜこんなことを書いているかといえば、
このところ、来年に向けての行動指針の創り直しをしているためです。
天将星はあるけれど、壮年期に身弱の星がめぐる自分的には、
宿命の消化、ということを考えるときに、必ずしも「主体的」「能動的」であることが良いとは限らず、
では今の立場でそれをどう消化するか、ということに思いを巡らせつつ上記のようなことを考えた次第。
ちなみに、私は只今現在天報星がめぐっているのですけれど、
「主体的」「能動的」ということを手放して以来、モノゴトがとてもスムーズになりました。
けれど、その「主体的」「能動的」ということを手放す、ということにも作戦と戦略が必要で、
今はその戦略と作戦についてこんこんと考えています。
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