算命学を真剣に学ぶ人の共通点は、
「本当に苦しいことを経験したことがある人」ではないかな、と思います。
算命学というのは、とても厳格な面があり、
厳しいことは厳しいと、疑いなくそれが現れます。
そのときに、
「本当に苦しいことを経験したことがある人」
というのは、その「厳格さ」というのを体感として認識できるので、
それを受けとめ、角度を変えて、前向きに活用することができる。
けれど、
「本当に苦しいことを経験をしたことがある人」
でない場合、なかなかそれを受け入れることが出来ません。
否定するか、見ないふりをするか、あるいは怒り出すか。
算命学というのを、統計学という人がときどきいるのですけれど、
私は、道理の学問であると思っています。
平たく言えば、世の中において、
こちらを押せば、これが出てきて、
あちらを押せば、あれが出てくる、
ということの仕組みを説く学問であるともいえます。
道理、というのは、私たちが学校で学ぶ道徳とか、世間でいうところの常識というのとは異なります。
例えば、
どんなに手ひどいこと、卑劣なことをしても、
それが法則に則り、フェアであればそこに禍は起こらないけれど、
どれだけ親切に思いやりをもっていたとしても、
それが法則を外れ、アンフェアであれば禍に苛まされる、ということでもあります。
以前、目下や部下を切れば、その人自身の未来を損なう、ということを書きました。
目下を切るなら、フェアな立場、つまり東方に上げてから切らなければならない。
つまり、「切る」ということ自体が禍を呼ぶのではなく、
その「切り方」が大事である、ということ。
これは、相手が目上の場合の在り方、身内の場合の在り方、同僚やライバルの場合の在り方、などそれぞれにあり、帝王学の一角を成します。
人間関係には、あらゆる関係においてルールと法則があり、それに則って相手に対峙した場合であれば、
相手が自分から離れるならそれは離れるべき相手である、ということでもあります。
正しさを、曲げて付き合うべきではありません。
本質的な人間関係というのは、ある種のサドンデスゲームなのではないかと思います。
多くの場合、本質的なことというのは相手の痛いところを突く。
その痛いところを突かれた側は、それに正当に対峙しなければ負けます。
一方で、
「本質的なこと」のふりをして相手を突いた場合には、
突いた相手ではなく、自分のほうが負けることになります。
人間関係は勝ち負けではない、という考えの人がいることを否定しませんし、そういう生き方もあるだろうと思いますが、
もし、何かを目指すとか、何かに本気で取り組むとかいう場合、
それは、それが本質に迫れば迫るほど、
つまり、上へ登れば登るほど、空気の薄いデスゾーンに突入し、
そこに馴れ合いとか虚構とか狡さとか騙しあいとか…が、入る余地はないのだろうと思います。
例えば、後天運でめぐる納音というのは、
そういう全き何かに向かいはじめる転換点でもあるのだろうと思います。
そこで、馴れ合いとか虚構とか狡さとか騙しあいから脱却し始める転換点、とでもいうか。
人生には、
新しいことをはじめて、いろんな生き方を許容し、様々な経験にチャレンジし、どんどん世界を広げる方向に向かう時期と、
そうやって広がった中から、濁りのあるものを淘汰し、手放し、そぎ落として、自分自身の在り方を研ぎ澄ませる方向に向かう時期があります。
前者の時期は、気持ちとしては外側に向かうけれど、世の中からの抵抗も多い。
一方で、後者の時期というのは、気持ちは内側に向かうわけですが、世の中の応援を得ることができます。
前者のスタート地点が律音で、後者のスタート地点が納音です。
前者の流れを退気、後者の流れを進気といいます。
このところ、私はその進気の流れが加速していて、人間関係が大きく変わるかもしれないな、という状況にあります。
それなりに、痛みを伴う面もありますけれど、
自分が自分であるために、どんなふうに世界が変わるか、楽しみでもあります。
⭐︎2020年9月五週目のマガジンを公開しました。
日付は、サークルに投稿したときの日付です。