先日、何かを成し遂げるためには「自分を明け渡す」ということが必要なのではないか、ということを書きました。
これについて、
貫索星・石門星という自我の星でも自我を抑えて陰に回ったほうが良いか?
それは身弱的な在り方ではないか?身強の場合はどう考えれば良いか?
…という質問があり、なんとなく同じような誤解をしている人がけっこういるのではないかと思ったのでちょっとこちらに書いておこうと思います。
そもそもですが、貫索星・石門星というのは自我の星といわれるのですけれど、
自我を押し出すことで陽転する星でもなければ、我を通すことが許される星というわけでもないだろうと考えます。
もちろん、貫索星・石門星にはそういう要素はありますけれど、
そうやって自我を押し出していくだけでうまくいっている人がいるとしたら、ぜひお目にかかってみたいところ。
先日も、算命学というのは、道理の学問である、ということを書きましたけれど、
そんなことは道理に合わない、ということは、少し考えれば分かるかな、と思いますがいかがでしょうか。
真剣に自分の道を進み学びを深めているような人に、「自分は疑問に思うから答えるべきだ」とか、
粛々と真面目に商売をしているようなところに土足で踏み込んで、「自分が欲しいと言ってお金を払うんだから売るべきだ」とか、
自我を通すというのはそういうことだと思うのですが、
そういうことをすれば、無視をされるか出入り禁止になるかするんじゃないかな?と思います。
よほど暇で時間をもてあましているとか、誰でもいいから客が欲しいような人であれば、
そういう失礼な人にも答えてあげたりモノを売ってあげたりするかもしれませんが、そうでなければ、まぁ相手にしないだろうと思います。
貫索星、石門星という星というのは、自我の星ではありますけれど、
その自我を他人に押し付けたり、その自我を振りかざしたりすると基本的に陰転します。
彼らの自我というのは内側に向けるべきものであり、その自我によって自分を確立するためのものであって、
その「自分は疑問に思うから答えるべきだ」というその自我を他人ではなく自分に向けて初めて価値が出るものであり、
その「自分が欲しいと言ってお金を払うんだから売るべきだ」というその自我を押し通すためにどれだけ工夫できるかによって価値が出るものだろうと思います。
そもそもですが、真っ当な貫索星・石門星というのは、自我を他人に押し付けるようなことはしません。
さて、「本質的な役割を果たすとか、何かを成し遂げるときに、何か壮大なものに自分を明け渡す」ということが身弱限定では?という点ですが、
これは有形現実の世界において何かに取り組み何かを成し遂げるとか、想像以上にうまくいったような経験があるような人は分かると思うのですが、
そういう特別な達成というのは、多くの場合、人智を超えたような何か大きな流れ、あるいは縁のつながりによってコトが起こるものです。
その点においては、身強・身弱は関係ないだろうと考えます。
もちろん、身強とか自我の強さによって、そういう「人智を超えたもの」というのを信じ切ることが出来ず、
結果としてその大きな流れに掉さすようなことをしてぶち壊してしまうとか、
せっかくの縁のつながりにケチをつけてしまうとかして失敗の確率が上がることはあるだろうと思いますが、
実際、
天南星が二つあるビル・ゲイツにしても、貫索星・石門星があるマーク・ザッカーバーグにしても、
あれだけ会社を大きくできたことについて、運やタイミング、人とのつながりという「流れ」や「縁」というものが寄与したことを認めているのをみれば、
「本質的な役割を果たすとか、何かを成し遂げるときに、何か壮大なものに自分を明け渡す」
というのが、身弱限定でも、貫索星・石門星がない人限定でもないことは分かるのではないかと思います。
以下雑感ですが、
算命学を学ぶときに、言葉尻を捉えて我田引水に解釈していると、おそらく学びは遠のくばかりだろうと思います。
また、ネットに転がっている内容だけ自分の命式を解釈するのも、誤った地図で旅をするような事態になるのではないかと考えます。
十干十二支にせよ、十大主星、十二大従星にせよ、その仕組みや成り立ちを理解しようとするならば、干ひとつ、支ひとつ、星一つとっても本一冊ではとても足りないほどの奥深さがあります。
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