今年の2月に、「算命学に興味があるから命式を観てほしい」という人が友人の紹介でうちに来たことがあります。
言葉に尽くせないほどの失礼さに、かなり怒っていたこともあり、
当時のブログにも、そのときのことをかなりの厳しさをもって書いたので覚えておられる方もいるかもしれません。
さて、その人が置いていったジャムというのを捨てることなく置いていて、
それを眺めつつ、ふと気づいたのですが、
人は、他人が何かをしているそのことについて、
自分が何かに取り組む真剣度と同じ程度の真剣度を観るのだろうと思います。
勉強にせよ、仕事にせよ、何か夢の実現にせよ、
自分がそれに向かう真剣度と同じ程度のものを観る。
なので、
時間とお金と労力とを相応にかけて真剣に、本気で何かに取り組んでいる人というのは、
他人に対しても、その人の中の真剣さや本気さを期待する。
一方で、
適当に、思い付きで、あるいは他人から見てかっこよく見えそうだとか、目立ちたいとか、
そういうゆるい理由で何かに取り組んでいるような人というのは、
他人に対しても、その人が「適当に、思い付きで、緩い理由で取り組んでいる」と思い込むのだろうと思います。
つまり、
その失礼な人は、自分自身が適当に生きているから、私の中の真剣度に気づかなかったのだろう、というお話。
なぜ、そのことに気づいたかといえば、
その人のnoteというのをたまたま見つけて、どうも「街のことを考える」的なグループでやっているようだったのですが、
いくつかの投稿があるだけで、すっかり放置されていたからです。
そもそもですが、私がnoteをはじめたきっかけは、
その人が一緒に来ていた友人に勧めていたからで、いかにも「自分たちはうまくやる」的なお話を聞きつつ、
私もやってみようと思ったからでした。
けれど、あれから10カ月ほどたってみてみれば、
本日に至るまで、私は230日の連続投稿をコツコツ重ねているのに対して、その人はほんの数投稿で終わっていて、
なるほど、その人たちの「自分たちはうまくやる」的なお話というのは、至極緩慢でその場限りのお話だったということに気づいたわけです。
私は、自分が真剣に取り組んでいたので、その人も当然に「真剣に取り組む」のだと思ったのですが、そうではなかったということです。
恐らくは、「仲良しグループ」で何かをやりたいとか、そんなことだったのかな?と思います。
ずいぶん前に、この世界は相似で出来ている、というようなことを書いたことがあります。
気になる方は、ブログ内検索で「相似」で検索すると出てくると思います。
この世界というのはいろんなカタチがあるのですが、
人間関係というのは、相似のカタチを互いに持つと仲良くなる傾向にあります。
あるいは、調和的な角度(例えば、半会は正三角形、支合は時点の流れに平行など)をもつとその関係は調和的になる傾向にあります。
これに加えて、物事に対する本気度、真剣度、つまりは人生の深さというのも、ある程度、近しい深さがないと、親しくなるのは難しいのだろうと思います。
感覚ですが、この「人生の深さ」というのが異なると、言葉がうわ滑る、言葉が反発する、言葉が届かない、ということが起こる感じがあります。
自分が全身全霊をかけてこよなく愛しているものについて通り一遍の言葉でほめられる感じとか、
自分にとっては疑いようのないことについて、素っ頓狂な角度で質問をされてイライラする感じとか、
同じ単語で会話をしても、自分が使う言葉の定義と相手の使う言葉の定義がかけ離れていてまるで伝わらない感じとか、
…そんな感じといえば伝わるでしょうか。
そして、誤解を恐れずに言うなら、
不調和な相手、人生の深さが異なる相手には、
近づかない、関わらない、自分の世界に立ち入らせない、というのが最善ではないかと思っています。
さもないと、前進力がそがれるような、気がします。
とりわけ、納音の折り返しを超え、自分の進む道を定めていたりする場合には、自分を研ぎ澄ませていくプロセスなので、
できるだけ、雑多なものや濁りというのは退けておいた方が良いのではないか。
…と、そんなことを考えています。
自分の人生の方向性がくっきりとすればするほど、
そういう違いというのは壊滅的な現象を起こしたりするもの。
緩慢に生きているうちは気づかない「ずれ」や「ひずみ」といったものも、
自分がより真剣に、本気で何かに取り組むようになると、
ごまかしようなくくっきりと亀裂として現れ、ひいてはその関係に壊滅的な破壊現象を起こします。
立場を超え、価値観を超えて「みんな仲良く」というのは美しいですけれど、
それは「自分を広げる」ステージの人がやることで、「自分を研ぎ澄ます」ステージとは異なるもの。
ちなみに、その失礼な人がおいていったジャムを捨てずにいるのは、
そういう自分の真剣さに対して礼を尽くすことなく寄ってくる人というのに気を付ける、
そういう壊滅的な破壊現象を起こさないよう気を付ける、ということを自分に戒めるためです。
失礼な人にせよ、拒絶するというのは、気持ちの上では抵抗があるのですが、
先のことを考えるなら、自分にとってはもちろん、相手にとってもはっきり拒絶したほうが結果としては良いことのほうが多いです。
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