生月中殺、について、改めて書いておこうと思います。
これは、私自身がうっかり忘れて足元をすくわれることのないように、自戒を込めて、という意味もあります。
さて、生月中殺というのは、「家系が中殺されている」という言われ、
私も公開ブログでは割とそういう書き方をすることもあるのですが、
noteのほうでは、逐一、
「自分が寄って立つ足場」のようなものですよ、
自分が所属している会社とか地域とか、自分の基盤のようなものですよ、ということを都度書いています。
都度意識していないと、うっかりそのことを忘れてしまいがちだからです。
現実、世の中、この世界。
言い方はいろいろありますけれど、
ふつうに生きていると、私たちを取り巻く世界というのは、
揺るぎなく盤石で、しっかりそこに何かを打ち立て、積み重ね、堅固に何かを創り上げていくことができる、
信じるに足る、寄って立つことができるかに見えるのですけれど、
生月中殺があるような人の場合、
この世界のことをそんなふうに、
揺るぎなく盤石で、しっかりそこに何かを打ち立て、積み重ね、堅固に何かを創り上げていくことができる、
信じるに足る、寄って立つことができる…と思って寄りかかった瞬間、
その世界がガラガラと音を立てて崩壊する、みたいなことが起こります。
大丈夫、と思った瞬間、それが陽炎のように消える、とか、
ようやく手にした、と握りしめた瞬間、それが砂となって指の隙間から零れ落ちる、とか、
安住の地と信じた瞬間、それを取り上げられる、とか、
いってみれば、そんなことが起こるのが生月中殺のある人です。
なので、
生月中殺がある人というのは、
人並み以上に安全確実なものを志向しながら守りに徹して生きるか、
(よく、生月中殺がある人は組織で頭を低くして生きましょう、などと書かれる通り)
はなから安全とか確実など目指さずに、遠心力の螺旋のエッジを突っ走るみたいに生きるか、
(よく、生月中殺がある人は枠のない世界観である、といわれる、その枠を突き抜けて生きる、ということ)
どちらかしかないのだろうと思います。
そんなふうに書くと、たいへんに苦しそうなのですが、
生月中殺のある人というのは、普通の世界観を生きようとしても、
自分が所属している世界を信用することができない、
自分が帰属している組織や社会に馴染めない、
自分がいるべき場所に疑問を持ち、そこに軸足を置くことができない、
自分が属している組織・集団に所属しきれない、
という現象が、早晩くっきりと表れてくるものなので、
どこかのタイミングでは、必然的に、
①人並み以上に安全確実なものを志向しながら守りに徹して生きるか、
②はなから安全とか確実など目指さずに、遠心力の螺旋のエッジを突っ走るみたいに生きる、
という選択肢しかないことに気づくのではないかと思います。
逆に、気づかずにいると、けっこう苦しい人生が続くことになるんじゃないかな、と思いますがどうでしょう。
たまに、生月中殺があって「自分の属している世界を信じられます」「自分の属す組織に馴染んでます」という人がいますけれど、
感覚としては、何かをごまかしているのではないかな、と思います。
先日、くっきり生月中殺を活かして、大きな世界で活躍されている方とお話をする機会があったのですが、
その方は、「生月中殺の人で世の中に合わせて、身を縮まらせて生きている人というのははっきり分かる」と言っておられました。
干支齟齬のある人は世の中の歪みを喝破することができるように、
破格の人が世の中の破れを喝破することができるように、
生月中殺がある人というのも、生月中殺がある人を喝破することができるのだろうと思います。
同じ要素を持つ人のことは、良く分かるもの。
その人が、私のことを「世の中に合わせて、身を縮まらせて生きている」と評したのかそれとも一般論で言ったのか分かりませんが、
もう少し、「遠心力の螺旋のエッジ」を意識して生きよう、と思いました。
はなから安全とか確実なんて目指してはいないですが、
「螺旋のエッジ」といえるかどうかはちょっと疑問符がつきます。
来年のテーマの一つに「螺旋のエッジ」を加えておこうと思います。
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