間一髪のところで捨てられることを免れた父の友人が書いたというその本のタイトルは『冥界からの遺言(ハート)』というものでした。
まだ触りのところしか読んでいませんが、
6部構成になったその本は、
小説風に始まります。
著者と思われる主人公は、
GWの後半、帰省先の九州から子供2人と車で横浜に戻る途中、33歳にして子供とともに事故死するのですが、
それと並行して66歳まで生きている自分についても描かれます。
説かれているのは、
人間の生死の意味、生きることの目的、与えられた役割。
父が他界して以来、
私が感じていた死というものへの疑問、
何を目指して生きるべきか、
自分がこの世界に存在するのはどのような役割を果たすためなのか?
といった数々のことについて触れられていて、読み始める前に想像していたのを遥かに上回る形で必要としていた言葉に出会えて驚きました。
自費出版の本というのは商業的な加工がされないので、著者の全き思いがストレートに表現されているもので、
ときに稚拙、ときに難解すぎるという誹りを受けがちです。
実際、6年前、父がその本を手にし程なくして他界したその当時であれば、意味をきちんと受け取れなかったようにも思います。
しかし、今この本を読んでいると、
これは父が伝えたかった言葉で、
そして今なお父は私のすぐ側にいるということを伝えたいのではないか?
と、そんな気がしています。
父が他界して以来、私の意識は外側ではなく内側に向かい、現実実業の世界ではなく思想哲学の世界に向かうようになりました。
その背景やそこから東洋思想、算命学へ向かった経緯についてはこれまでも様々に書いているので割愛しますが、
そうした学びを経なければ、この本を理解することは出来なかっただろうと思うと、
こうした学びの道に向かっていることも誤りではないように思います。
ちなみに、
この人は父と同級生なので、年干支は丁亥。
霊感強く感性が鋭いといわれる干支をこの人も持っていることがこの本にあるような思索につながったのだと思いますが、
同時に、同じ年干支を持つ父の言動との一致点も様々にあり、「同じ年に生まれた人の言葉」というものの共通項は確かにあるな、と思いました。
父は年干支の丁亥を含め全柱異常干支の人であったのに、本人の人生は実業の世界での華々しい仕事に終始しました。
従星は全て天恍星の身中だったので、現実世界、それも海外で多く過ごしたことは宿命に沿っているものではありましたが、
やり残したことがあるとすれば、異常干支なりの虚の世界の役割ではないかと思います。
この本にある言葉は、父が深く思索する一方で語ることも記すこともなかった言葉なのかもしれません。
じっくり丁寧に読もうと思います。
まだ触りのところまでしか読んでいませんが、以下心に響いたところの引用。
・家族のために長い間、一生懸命に働いてきた気でいたが、掘り下げて考えてみると、それは己が貪り喰うための不徳な生業に過ぎなかったのである。
・人間も自然の外因だけでは死に切れないのではないか。
・誰にとっても死が人生の最大の難事であることは必定であろう。
人それぞれに知力と体力の限りを尽くした葛藤の末に、ある悟りを得なければ往生できないのではないだろうか。
・人も病や事故や衰弱等の外因のみになって死ぬことはできないのであって、誰しも人生における最大の力を尽くして生死の葛藤を試みなければ往生が許されないのではないかと考えるようになった。
・60年間の生業の後、晩年には自分を見つめ、社会な家族とのしがらみを絶って己を個にして生の不徳を注いだつもりでいた。
しかし、膨大な量の生からの負債は、彼の気づかないところにあった。
・彼が往生への引導を得るためにはら彼が続けた不徳な生業に対する贖罪と彼が柵のない一個人として生きた証が必要だったのである。
・我々もまた歴史の一時期を過ごしているのであり、全世代に学び、それを成長させて次世代に橋渡しする責任を負っているのである。
歴史を学ぶ本当の意味は、この責任を全うすることにあるのではないだろうか?
・前の世代から受け継いだ歴史観に修正を加えて、次の世代に橋渡しをするという欠いてはならない責務を怠ったままにしておこうとしているのだろうか。
・私は母性愛の完璧さに比べて父性愛の頼りなさを改めて思い知らされたような気がした。
父親が、この成長に憂慮を繰り返すのは、父性愛の欠如を補うための神の配慮かもしれない。
・外面に現れる命とはその者の生態であり、経験である。そしてもう1つの命の内面にある永劫の未来とはその者の精神である。
命は内面と外面の両面を持つことによって必然で不滅の存在となるのである。
命が必然で不滅の存在であると知るならば、死を恐れることはない。
病気や老衰によって幾ばくもないと、むやみに嘆く必要もない。
たとえ臨終の身となっても、命は生への精算を終えるまで、内面の活動を続けねばならないのだから、尽きることのない生への精算は、尽きることのない命の保証でもあるのだ。