このところ、コロナを恐れて自宅に引きこもっています。
「引きこもっている」といっても、多摩川沿いを走ったり、近所に食材を買いに行ったりはしていて、
飲みに行ったり、遊びに行ったりするような、たくさんの人と交わるようなことは避けている、という程度ですが。
コロナをまるで気にしない人、というのも世の中にはいて、
だいたいは、中格・下格の人たちなのですが、彼らは、コロナをものともせずに遊びに行ったりのみに行ったりされている印象があります。
一方で、上格の人は電車に乗るのも怖がるような方もけっこうおられますね。
上格の人はルールのしっかりしたような組織で働くことに向くといわれますが、
ルールとしてダメだといわれたことは、やらない・出来ない人たちであるということで、
「電車に乗るのも怖がる」ということにもなるのだろうと思います。
さて、先日ご相談を頂いた方から、
コロナ禍下にあって、身動き取れないのは、東方に散法(対冲、刑、害、天剋地冲、納音など)がめぐっているからでしょうか?
という質問をいただきました。
実際、東方に散法などがあると前進不能といわれるので、そういう質問をされたのだろうと思います。
これについて、私は、
散法なら散法で、その散法を踏み越えていけば世に出て行けるものなんじゃないかな?と思っています。
確かに、ラクに簡単に、まわりが壮大に応援してくれて世の中に出て行く、活躍する、ということにはなりにくいのが東方散法のタイミングではありますけれど、
納音なら世の中の矛盾を踏み越えていくとか、
害なら世の理不尽を踏み越えていくとか、
そんなふうに、散法のカタチをがっつり経験し具現化させる在り方をもって果敢に突き進んでいけば、それをもって「世に出る」、ということもあるだろうと思います。
もちろん、そうやって果敢に踏み越えていけるかどうか、どういう環境で踏み越えていくか、どうやって踏み越えていくか、
…というのは別の角度からの検証が必要ですし、
「世に出る」ということの程度もそれほど大きなものではないかもしれませんが。
そもそもですが、
算命学で東方に合法がめぐる場合の「世に出る」ということは、
出世するとか名が知られるとかいうことには確かにつながりやすいものですけれど、
そこに内実が伴っているか?本人がそれに充実感をもって中身のある活躍ができるか?というのはまた別のお話です。
東方に半会やら大半会やらがめぐって、
名が売れて、注目は浴びたけれど実際のところは中身がまるで伴っていないということは往々にしてあります。
このあたりは、対冲などがめぐったときに「カタチを壊す」ことで消化することができたりするのと同様です。
そう考えれば、
自分が充実するための活動とか、
自分が存在感を発揮していくための活動とかいうことの先において多少世の中の役に立つ、
という程度のことであれば、別に散法の時期でもできるだろうと思います。
だいたいにおいて、算命学で「世に出る」ということにつながるものは、東方における合法で「世に出る」という場合、だけとは限りません。
東方の星を光らせることをもって世に名乗りを上げることは出来ますし、大運天中殺で世に出ることもあります。
算命学を断片的に学んでいると、細かい要素に振り回されてしまいがちですけれど、
全体観をもって世の中を眺めれば、いつでもどこでも、どういうタイミングであっても、
できることというのは常にあるだろうと思います。
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