ちょっと言葉を選びつつ書くのですが、
つくづく、宿命を逸れている人というのは「変なこと」をするものだな、と思います。
なんとなく、
宿命を逸れていると=エネルギーがスムーズに流れないと、
頭の回転も悪くなる、ということが起こるのではなかろうか?
これは、
玉堂星があるような人が、モノゴトの理屈を知らずにいると相当おかしな人になるとか、
牽牛星がありつつステータスにつながらないような短期の転職を繰り返すとかなり変な印象のひとになるとか、
中殺があるのにそれにふさわしい環境にいない場合にエネルギーがあられもない方向に向かうとか、
そういうことですが、
ちょっと遠めに眺めているとそういう人は、
明らかに利用されているのに喜んで利用されに行く=肥料になりに行くとか、
明らかに本人の才能や能力とはかけ離れているのにそれに固執する=ネガティブな螺旋にはまりに行くとか、
そういうことをしている人がけっこういて、驚きます。
もっとも、そういう8割の人のお蔭で活きる2割の人がいるわけなので、それはそれで良いのですが、
そういう「変なこと」をしている割に上昇意欲ばかりが強く、欲求不満に苛まされている、というようなことをきくと、
どうにもやるせないような気分になることがあります。
「苦節十年」という言葉をもじって「苦節二十年」などという人がときどきおられますが、
「苦節十年」というのは、四字熟語であり、
「苦節」は、苦労を耐え忍びながら、初志を守りぬくこと。「十年」は、長い間の意。
なのだそうですが、(goo辞書より)
算命学的に言えば十年というのは、後天運で十大主星が一巡する期間といえるわけなので、
十年のうちに、その「取り組んでいること」というのがキラキラと発揮できないとしたら、
それはそもそも、その「取り組んでいること」が間違っているということなんじゃないかな、と思います。
逆に言えば、十年取り組んでどこかで自分がキラキラできることならば、それは取り組む価値があると思うのですが、
そうでないならそれはそもそも間違っているのではないか?というお話。
ちなみに、宿命を逸れている「変なこと」をしている人というのは、
どうひいき目に観ても十年経っても同じようなことをしている感じがあります。
なお、この「変なこと」ということの定義は、「変わったこと」とか「一般受けしないこと」というのとはまた別です。
「変わったこと」も、人に寄り評価されるならそれも良し、
「一般受けしないこと」も、世の中に需要があるならそれはそれで良し。
守護神を学んでいると良く分かるのですが、人間というのは「社会で役に立つ」「人の役に立つ」ということがその存在価値であり、
身強・身弱により、自律的か自立的かの別はあるにせよ、自分というのをしっかり世の中に役立てていけているならそこに命の意味があります。
が、これは「他人の肥料になる」ということとは似て非なるものであります。
「変なこと」と「変わったこと」「一般受けしないこと」をどう見分けるのか?
「他人の肥料になること」と「社会で役に立つこと」や「人の役に立つこと」をどう見分けるのか?
…といえば、そこに自分の根源的な満足感があるかどうかで見分けることができます。
つまり、「変なこと」をしている人というのはだいたい自分でわかっているだろうというお話です。