「一番なりたい職業」とか「第一志望の会社」というのは、案外とその仕事に就いてしまうとどうということがなかったりします。
たかだか20年やそこら生きてきて、
それも学校という閉鎖社会で過ごしてきた人の「一番なりたい職業」とか「第一志望の会社」というのは多くの場合、親の価値観や教師の価値観、あるいは世間一般の価値観の反映であることが多く、
「本当の自分」が活きる仕事とは限りません。
(ごく少数の例外はありますが)
しかし一方で、
それが満たされないとそれに拘り続けることになったりもし、長い間自分の人生の壁となり続けたりもして、そこで足止めをくらうことになる厄介なものであったりします。
算命学では、
自分本来の希望や願いというより、「満たされなかったことの反動」として現れる願望を『有願』と呼びます。
これは他力的に作られた願望であって、自分本来の願望ではないのですが、
それが満たされないと前に進むことができなかったりもするので、
一番なりたい職業とか、第一志望の会社というのは、それを「聖域」にすることなく、
しのごの言わずにさっさとそれを叶えておくのが良いだろうと思います。
それは簡単ではないかもしれませんが、
それを叶えてしまわないことには、
自分の人生の「本当のスタートライン」に立つことさえできず、何か重たい荷物を背負いながら人生を歩むような、ひどく不効率な人生行路になってしまったりします。
小説家になりたい、と思いつつ、本を読み続けるとか、
女優になりたい、と思いつつ、観劇を趣味にするとか、
あるいは獣医になりたいと思いながら動物保護のボランティアをするとかいうのは、
生きる上での慰めにはなるかもしれませんが、
それが発展することはありません。
小説家になりたいなら小説を書いてみて応募するとか、
女優になりたいならオーディションを受けるとか、
獣医になりたいならせめて動物病院で働いてみるとかしないと何も始まりません。
そもそも職業というのは、
外から見るのとやってみるのとでは大きく異なるものなので、
長く憧れていたとしてもいざその仕事に就いてみたら、自分の思っていたものとはかけ離れているということも多く、あっけなくその仕事への熱が消え失せてしまったりします。
人間が自己の本質が何であるのかを知ることは非常に難しく、もし知り得たとしても30年、40年というような長い年月を必要とするといわれます。
「自分のことは自分が一番よく知っている」
という人がいますが、
自分の目で見ることができるのが身体の一部であって、頭のてっぺんや顔面、背中などの背面を自分の目で見ることができないのと同様に、
実は自分が知っている自分より自分の知らない自分の方が多いものです。
前に書いたとおり、
東の納音(30歳)までが世界を知る期間であり、
東の納音からがその知った世界で自分を活かしていく期間です。
これは言い換えれば、
東の納音までが「自分を知る期間」であり、
東の納音からが「自分の生きる足場を築く期間」であるともいえます。
現代社会のキャリア構築はスタートから直線的に積み上げていくものとして語られますが、
本来、人間一個の人生を切り開くなら、
基礎教育、学校教育とその後の約10年の職業教育を経て自分の目指すものを見極めて、
30歳から自分の人生の足場を組み、そこから積み上げていくほうが良いように思います。
その意味では、
子供がユーチューバーになりたいというなら早めにユーチューバーをやってみるようサポートするとか、
子供がアイドルになりたいというなら早めにオーディションを受けさせるとかしてみると良いだろうと思いますし、
大学を卒業して劇団に入りたいとか、
大企業を蹴って起業したいというなら、
それをやらせてみたほうが良いように思いますし、
学歴にコンプレックスがあるならさっさと学歴を備えてしまうほうが良いです。
合う合わないはありますし、
お金もかかったりしますし、
その道が発展するか分かりませんが、
「有願」を残しながら生きていくことは将来に負債を残して生きるようなもの。
早めに叶えるか手放すかしたほうが良いからです。
ちなみに、
自分の人生の目指すべき場所が中心だとすると、
その中心に向かっている人と、
その中心のまわりをぐるぐるしている人、
その中心から遠く離れたところに拠点を作ってしまっている人がいます。
面白いもので、これらの人の人生は、
相互に触れ合うことはあっても相互理解や関係構築にはつながりません。
いってみれば「生きる世界」が異なります。
中心に向かっている人のエキサイティングな人生と、
ぐるぐるしている人のフラストレーションが溜まる人生と、
中心から遠く離れている人の退屈な人生は、
相互に別世界を構成しています。