金烏玉兎庵

徹底的と格とアンバランス、それが「私の生きる道」

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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ときどき、
「そんなに算命学に入り込んで勉強していて大丈夫?」
と言われたりします。

 

単に勉強しているだけなら穏やかに眺めている人も、
けっこうなお金がかかっていることを知ると、騙されてないか心配したりします。

また、
算命学はいきなりハイペースで勉強すると自分と世界の次元がアンマッチになって体調を崩したりする人もいるのですが、
そういうことを心配してくださる人もいます。

 

ありがとうございます。
しかしまぁ、私はこれでバランスが取れてるのではないかと思っています。

 

元々、格に入っている人とか偏った命式の人というのはそういう傾向にあります。

何かをやると決めたら徹底的。
寝食を惜しんで取り組み、他のことには目もくれず、ひたすらそのことに取り組んだりします。

普通の人から見たら「ちょっとおかしいんじゃないか?」と思われたり言われたりしますし、
そういう子を持つ親御さんなどは、ひどく心配してその子を矯正しようとしたりします。
(もちろん善意で)

 

しかし、世の中には何かを「徹底的にしか出来ない」人もいます。

 

そういう人は、
「ほどほど」とか「バランスよく」とか「ちょうど良いペースで」などという言葉の意味を理解することができず、
ほどほどにバランスよく生きる人たちからは奇異の目で見られたりします。

 

自分を確立する前、若年期においては苦しい思いもたくさんします。
なぜなら、「ふつうの友達」とか「公立学校の教師」とか「世間を気にする親」というのは、そういう「徹底的にしか出来ない」子供にとってはひどく苦痛な存在で、
そういう人たちといると、自分がどこか本当に「おかしい」のではないか?と誤った認識を持ってしまったりするからです。

 

格に入ったり偏ったりした命式の人、
あるいは中殺があるような人というのはそういう人です。

 

格にも入らず中殺もないような「ふつう」の親はこうしてそんな子供の才能をつぶしていきます。
格に入ったり宿命中殺があったりする子供は「社会の子供」として育てるのが良いといわれますが、
これは、そうした子供は「ふつう」の人には理解できない世界観を生きていて、「ふつう」の親の常識で育てるとその子はつぶされてしまうからです。

 

世の中の80%くらいの人が「これが幸せ」だと信じて疑わないことが、20%の人にとっては耐え難い苦痛であるということがあります。
世の中の80%くらいの人が茨の道だと思う場所を、20%の人はそこを安住の地と感じていたりします。

 

私は、
子供の頃は本しか読まない子供でしたし、
高校の頃は勉強ばかりしていました。
学生時代はその半分以上を就職活動に費やしましたし、
社会人になって20年くらいは、早朝から夜は早くて20時、遅いときは午前2時くらいまでら働く生活をしていました。

 

それぞれの期間において人並み以上に集中して取り組み、
それぞれの期間にそばにいた人たちは、親や親戚を含めみんな、「ちょっとおかしいんじゃない?」と言っていました。

 

しかしそれが私にとっては「ふつう」で、
大変ではありましたが、それは幸せな記憶です。
そして今はその「徹底」が算命学に向かっているに過ぎません。

 

何が正しいか?
ということは、
実は自分にしか分かりません。

 

なので、子供や配偶者、まわりの人が、
「黙っていてもそれに向かう」ということがあるとすれば、
それはハタからどう見えたとしてもらそれはその人にとって必要なプロセスで、
場合によってはそれがその人の「生きる道」であるかとしれないので、
見守らないまでも、せめて黙って眺めるか、放っておくのが良いのではないかと思います。

 

偏った命式の人は、
その偏った命式を消化しないと光らないですし、
格に入っている人は、
その格を消化しないと格は光りません。

特別な格を持っていて、特別な才能を持っていたとしても、バランスとか「ふつう」を目指してしまうと「ふつう」にすら劣る結果になったりします。

 

世の中には一人一人に「これが私な生きる道」という道があり、それは他人には見ることができず、他人には想像すら出来ないものです。

本来人間は、
そういう「自分だけの道」を生きるべきですし、まわりの人がそれに介入することは、神を冒涜するに等しい傲慢なことであるようにも思います。

 

40年くらいきちんと生きてきた人であればその意味がわかるのではないかと思います。

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