先日来、弟の子供について心配しているその内容を、
算命学、東洋思想という観点からちょっと書いておこうと思います。
私の心配事が、世のお母様、お父様がたの参考になればという思いもあります。
さて、弟の子供はたいへんに友達が多い子供で、今回、中学は私立の学校に進学するのが決まったのですが、
そのお祝いの席で、
「ゴールデンウィークは小学校の友人と遊ぶことにした」
と言っていて、私はそれを聞いていたく心配をしました。
なぜか?といえば、
そうやって「馴染みの人とつるみ続ける」というのは、
いってみれば律音の人とつるみ続けるのと同様に、
「自分が確立されていない」
「自分に自信がない」
ということのために、似たような人とつるんで安心しようとする、そういう気配を感じ取ったからです。
基本的に、人間というのは自分の意志や意図をくっきりと持ち、
自分が確立されてオリジナルの生き方に向かい始めると、
自分と似たような人と仲よくしようとは思わないものです。
もちろん、
誰も知った人がいないカンファレンスなどで律音の人に会ったりすると、
たいへんに気が合って意気投合して仲良くなる、というようなことはありますけれど、
その後、親しくつるみ合うとか、休みの日にわざわざ時間をとって長々付き合う、みたいなことはしないもの。
もしそれをするとすれば、
自分がまだまだ不完全で、自分のオリジナルの生き方が確立されておらず、
自分と似たような人といることで「安心」という名のラクな道に逃げ込んでいることに他なりません。
易に「天山遯(てんざんとん)」という卦があります。
「遯」とは「逃れる」という意味で、
易経では「沢山咸(たくさんかん)」という恋愛の卦、「雷風恒(らいふうこう)」という結婚の卦の次に出てくるのが「天山遯(てんざんとん)」です。
恋愛して、結婚して、その次になぜ「逃れる」という卦が出てくるのかといえば、
心惹かれて想い合い、結婚して子供をもうけることは大切なことだけれど、
妻子とむつみあって落ち着いてしまっては、成長変化が止まってしまう、
自分が世の中で名を挙げる、活躍する、立派な人間として社会をけん引していく、という、
本来、この世に命を受けた人間として必要なことをすることなく堕落の道に進んでしまうものなので、
落ち着いてしまいそうになったら、そこから逃げ出さないとダメですよ、ということを説いています。
徳川家康も、娘を嫁にやったときには、「しばらくしたら夫婦は必ず別々に寝よ」といっていて、
家族の中でぬくぬくと落ち着いてしまっては天下の大事を為すことはできないものだと説いています。
これは、
学生時代の恋愛が、自分の足を引っ張ることがある、というあのことに通じています。
あるいは、
夫の帰宅が遅いことを責め立てる妻が悪妻といわれるその理由も同じ理由であります。
そして、
律音の関係にあるひとが、あまり長くつるみ合うことの危険性というのもこの「天山遯(てんざんとん)」の卦に通じているといえるだろうと思います。
もっとも、小学校を卒業したばかりの子供、それもまだ中学校生活が始まったばかりの子供に、
そんな心配をするのも過剰反応と思っているのでそれを伝えるつもりはまるでないのですが、
いちおう、そういう心配もした、ということで記録として書いておくことにします。