金烏玉兎庵

「則天去私」究極の目指すべき境地

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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「則天去私」という言葉があります。

天に則り私を去る。
小我にとらわれず、身を天地自然、森羅万象ゆだねて生きて行くことをいい、夏目漱石が晩年に理想とした境地といわれますが、
これは算命学においても、究極の目指すべき境地だろうと思います。

 

ちなみにその場合の「天」とは、
天地自然、森羅万象とともに社会や身の回りの人たちをも含みます。

 

東洋思想では、
人間というのは、「孤」ではなく「群」であるといわれますが、
これは、人間は一人で存在することはできず、父母や兄弟、友人知人など集団、社会の中にあって初めて生きることが可能な存在であるという意味です。

 

人間が、社会の中で役割を果たしていくには、そうした社会の「全体」の中の「一部」となって初めてその役割が果たせます。

「全体の中の一部」であることが人間の自然な性質であり、
一方で「一部」のない「全体」はありません。

 

この「一部」というのは「全体」に即したものである必要があり、当然「私」とは異なります。
「私する」というのは「全体」に逆らうことであり、「全体」を離却することであり、潰乱につながります。

 

論語』において孔子は「意(私意)」、「必(わがままな心)」、「固(頑なな執着)」、「我(我欲)」の4つを絶ったとありますが、
これは言い換えれば「去私」であり、これが道教に連なる老荘思想に通じるといわれていることを考えれば、
「則天去私」の境地が算命学における目指すべき境地と言ったとしてもあながち誤りではないだろうと思います。

 

算命学において強運といわれる従化五格は、人に従うことによって(去私によって)その格が最も光りますし、
スケールの大きな世界観を持つ宿命中殺のある人は、良くも悪くも目立ってしまうので人に合わせる努力をした方が円満です。

 

算命学では中庸ということが尊ばれ、
目立つことなく平和に円満に生きていくことを良しとするからそのようにいわれるのだと言われたりしますが、
これは必ずしもそのような消極的な意味ではありません。

 

地味で平凡だといわれたりもする司禄星が算命学において最も尊ばれるのは、
中庸を得て多くの人と調和的に生きることができるその性質に寄るのですが、
何か大きなことというのが、そうした多くの人との調和の先にしか成り得ないものであるということに寄ります。

 

つまり、
「一部」である一個の人間が「私」に走らず、きちんと「一部」としての役目に尽くしていけば、「全体」たる社会は自然と円滑に治まっていく、
それを牽引する在り方が「従う」とか「合わせる」、あるいは「中庸」であるということです。

 

自治」という言葉があります。
これを「自ら治める」と捉えている人が少なからずいますが、
これは「自ずから治る」ことをいっています。

言い換えれば、
誰か強いリーダーシップを取れる人が治めるのではなく、まわりに合わせ従う人によって構成される社会が自然と治まっていくといつことです。

 

天将星という王様の星がありますが、
古代中国において賢帝といわれた人たちはいずれも謙虚に人の声に耳を傾ける「まわりに合わせ従う」人であったそうです。

 

そう考えると、
天将星というエゴの強いリーダーシップを取れる星ですらも、
そのエゴを超えて「人に合わせ従う」という在り方を持ってそのリーダーシップを取ることが望まれるということなんだろうと思います。

 

少しバラバラと書き連ねましたが、
いかなる星を持っていたとしても、
社会で円満に過ごし、
また社会で何か役割を果たしていこうとするならば、「則天去私」の在り方が望まれるのだろうという考えに至りました。

 

実践していこうと思います。

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