現在は日本の運命が始まった1947年から数えると72年目に当たります。
時代論は10年ごと5つの時代で一区切りですが、
さらに大きな流れでいえば、
陽の時代の50年、陰の時代の50年と、その50年がさらに陰陽を成すので、現代は陰の50年の最中ということになります。
陽の50年はカタチあるものが全盛の時代、
翻って陰の50年はカタチなきものが全盛の時代となります。
1947年から1996年は、確かに重厚長大産業が全盛の時代だった一方、
1997年からは情報産業やサービス産業が全盛となっていることを見ればその意味するものが分かりやすいのではないかと思います。
このところ、
様々に実業家や芸能人など著名な人の命式を眺めているのですが、
この陰の50年は身弱のほうが宿命を消化しやすいように思います。
前に、
「煮え湯を飲まされた!」と騒ぎ立てるのは身強の人で、身弱の人は割と「どこ吹く風」的に平然としている、ということを書いたことがあります。
身強の人が力強い大木だとすれば、
身弱の人は風に揺れる柳のよう。
身強の人が強い意志の人だとすれば、
強い精神力があるのは身弱の人であったりします。
身強の人は勝ち負けや損得に敏感で、
カタチのないものへお金を使うことに消極的な傾向があります。
お賽銭もそうですし、
美術展などでも「有名な画家」の美術展には足を運んで並んだりする一方、
名もない画家の展示会や心を満たす一輪の花を愛でる気持ちには無頓着であったりします。
(SNSにあげるとかいう目的があれば別ですが。)
何か活動をするときに、
それがお金になるのか?ということに拘るのは身強の人で、
身弱の人は、どこかで誰かの役に立てばいいかな?と考えたりします。
みんなに認めてもらいたいのが身強の人、
自分で自分を認められればそれでオッケーなのが身弱の人ともいえます。
また、きちんとカタチや体裁を整えることに拘るのも身強の人、
一方、身弱の人は何となくまわりの人に助けられて気づいたら始まってた!
みたいなことがけっこうあります。
こうして羅列してみれば、
なんとなく、
最近は身弱な感じの風情が世の中のここかしこに漂っていることが分かります。
万人が信奉する価値基準に則った時代ではなく、
個人が自分の価値観に従って生きるマルチな価値基準の時代、
という言い方もできます。
ちなみに、
身強というのは天南星、天禄星、天将星がどこかにあれば身強ということになるのですが、
感覚としては若年期や晩年期にこれらの星があっても、壮年期に身弱の星があれば、
ものの価値観や捉え方としてはやはり身弱的な傾向が強いように思います。
明石家さんまさんは晩年期に天将星はありますが、壮年期は天馳星、
福山雅治さんも晩年期に天将星はありますが、壮年期は天胡星、
星野源さんも晩年期に天将星がありますが、壮年期は天印星です。
二階堂ふみさんとか篠田麻里子さんは壮年期天将星ですが、必ずしもそれが生きている感じはありません。
安倍首相は壮年期天将星で光っているのは、政治家のように明確に万人が認識する頂点を取れるような世界だからであって、
最近の世の中ではなかなか「番人が認める頂点」というのがない中では、
壮年期の身強というのはなかなか消化しづらい世の中なのかもしれません。
と、それで終わるわけにもいかないので、
壮年期身強の消化法について考えてみようと思います。