なぜ算命学を学んでいるのか?
ということはたびたび訊かれることで、
きっかけやその意味を、質問に応じて色々に答えていますが、
この安田財閥の祖である安田善次郎が書いた『身家盛衰循環図系』もその理由の一つ。
これは家が栄える在り方が記されたものですが、一個の人間の健やかな人生の道筋でもあります。
……….
「困窮」の中にいる人間は、「発憤」するか「挫折」するかに分かれる。
「挫折」した者は前に進めないが、「発憤」した者は「倹約」を旨として生活し、やがて「富足(十分豊かになる)」の状況となる。
ここに分かれ道があり、
ここから、「修養」の道を選んだ者は「喩義(真理の追求)」に進み「清娯(教養ある趣味)を楽しみながら「安楽」の境地へ至る。
ところが、「富足」の後に「豪奢」な生活を選んだ者は「喩利(利益の追求)」に走り、「煩悶」し、やがては最初の「困窮」の状態に戻ってしまう。
……….
この図には、そんな意味があります。
何をもって「十分豊か」というのかは人によって異なりますが、
自分の欲するままに暮らすことができるなら、それは自分にとっては「十分豊か」であるといえ、
その先に目指すべきものは「修養」であり、さらに「喩義(真理の追求)」を目指して「清娯」に行き着くのが幸せ、ということになります。
東洋思想の学びというのはまさに「心身の修養」であり、喩義につながります。
「喩義」というのは現代では聞きなれない言葉ですが、元々は論語にある
『子曰、君子喩於義、小人喩於利』(子曰く、君子は義にさとり、小人は利にさとる)
という文章にある言葉で、
「優れた人はあらゆる物事を正しい道に合うかどうかを基準として考えて行動するが、教養や道徳心に欠ける人間は、どうしたら利益を得られるかを基準として考えて行動するものである」
という意味です。
※参考:https://news.mynavi.jp/article/20130903-a016/
世に偉人といわれる人は様々にいますが、
この安田善次郎という人は、
この人は、
「自分にも他人にも厳しい人」
といわれ、
また、目的の散漫な寄付や実現が困難な事業への出資は厳にこれを行わなかったことから「ケチ」といわれましたが、
勤勉克己、意志の人であり自分も厳しく律した人です。
その一方で、旅行や芸事を日常とした多趣味の人でもあり、その人脈は多士済々であったといわれます。
家系を順当に継承させていくことには失敗しましたが、この人一人単独の人生でいえば、早いうちに人格が形成され、その人格をこつこつと研いでいくような人生であり、極めて充実したものであっただろうと思います。