この週末、東洋史観からの世の中の眺め方、仕組み、役割についてご案内いたしました。
何人かの方から時代錯誤というご指摘もいただきましたが、
これは、森羅万象の中における人類がどのような傾向にあるか、ということであって、
「そのようにしなさい」
というものではなく、
「そのような傾向があるので、それに沿っているとラクですよ」
という一つの処世術の提案のようなものです。
例えば星図にある激しい相剋、
例えば水火の相剋とか火金の相剋とかは、
意図的に余裕をもってコントロールすることで抑制できたりしますが、
ギリギリに追い詰められるような状況、
必死の局面においてはくっきりと出てきたりします。
人為的にコントロールすることができることもあるけれど、
自然体としてあるものは厳然と型としてあり、それを無視するのではなく、その前提でコントロールすることが望まれます。
例えば激しい相剋というのは、
激しく怒るとか、
激しく対立するとか、
激しく葛藤する、という形で出てきたりするのですが、
そういうくっきり現れた現象から何かを学ぶこと、
そういう試練から学ぶことがその星図を持つ人の宿命で、
それによって成長でき、より高い次元を目指すことができる、ということでもあります。
東洋史観による自然界の考察というのも、
それが「基本の型」であると受け止めて、
その前提で、「自分はこうありたい」というビジョンに向けて戦略を練る必要がある、ということになります。
世の中というのは、
法律だけでできているわけではありません。
法律というのは、自然の姿を制御するためにあるものなので、
世の中を知るには、
法律が制御しようとしている自然の姿がどんなものかを知る必要があり、
その自然の姿が東洋史観からの考察です。
算命学、東洋史観というのは、
4000年の歴史から導かれる人間の姿、人間の型、運命の仕組みを論じています。
その間においては当然、法律は変わり、世の中の常識も変わり、人間の目指すものも変わってきたわけですが、
そうした変遷の中においても変わらないものを論じているのが東洋史観であり算命学であるといえます。
今の時代に合わないと感じられた部分もあるかと思いますが、
より広い視野、より深い知恵に基づいてそれらを眺めれば、人間関係の根底、あるいは人間の根底にそうした東洋史観が説く姿が横たわってあることを見て取ることができます。
当然、「基本の型」と異なる人はいくらでもいますし、そうした人が偉人と呼ばれる人物となっていることもまた多くあります。
しかし、そうした特異な例、出色の人物ではなく、世の中の普通で平凡な人々を眺めれば、多くの場合においてその「基本の型」にはまっていることもまた事実です。
世の中の動きがどう動くのか?
世の中の人がどう反応するのか?
という大きな視野で物事を考えようとする場合には、こうした基本の型を知っておくことは有用です。
例えば個人として男性に伍して働くキャリアウーマンな女性というのはある場所では多数派かもしれませんが、
日本全体で見れば少数派です。
法律を作るときにはそうした少数派に配慮し、あるいは少数派を担いでコトが決まっていくことはあるわけですが、
人民の素の意識、操作される前の世論のようなものというのはそこに違和感を持つこともあり、進歩的な人はそれを旧弊であると断じたりするものの、
そこに一つの真実があるのも事実です。
東洋史観というのは、
そういう一つの(全てのではない)真実を説いている、
そのように受け取っていただけると、活用の幅も広がるように思います。