算命学の理論ではなく、
単なる私の感覚の話です。
素っ頓狂と思われそうですが、
わたしは割と普通に、
ある状況から別の状況へワープしたり、
自分が望むものや状況を得るために魔法をつかったり、できると思っています。
ワープとか魔法とかいうと「???」と思う人が多そうなので別の言い方をすると、
「現実」というものはまったく盤石でなく、
割と頻繁に、
そしてフレキシブルに変わるものだという感覚を持っています。
なので、
自分の意図とか思考にはけっこう気を遣います。
うまく制御できるわけでもないので、
その「フレキシブルに変わる現実」に気づいて以来、
イライラしそうな人や状況、
摩擦が生じる類のことを避けるようになりました。
ちょっとした怒りで、
簡単に現実が壊れたりしますし。
一方で、
ものすごくすこーんと通る思いは軽々とカタチに成ったりします。
ちなみに、
「それならもっと大きな何かを目指せばいいのに。」
と言われそうですが、
大きな何かを手に入れた場合、
どこかで必ずその反作用があるので、
安易に大きなものを目指すのは、
けっこうリスキーです。
お金だけ手に入れる、とか、
名誉だけ手に入れる、というのは案外と簡単で、自己完結できる印象ですが、
両方をけっこうなレベルで手に入れるとなると、相当の陰徳を積んでいない限り、家族や家系においてその代償を払うことになりますし。
中庸、という視点を欠くとやはりよくありません。
ちなみに、
「本当に欲しい何か以外のことをやみくもに欲しがることは、品性を欠く乞食の所業」
といわれたりしますが、
それは品性を欠くというより、
「エネルギーの無駄遣い」
というほうが適切な表現な気がします。
全く一貫性のない活動をあれこれやることがすべて無駄とは思いませんが、
不効率であることは確かです。
先ほど、最身強の人についてエネルギーを持て余すということを書きましたが、
最身強の人は「現実」の強度が強いので、その現実の中で頑張る、
その現実の枠の中で消化しようとする傾向がありますが、
身弱とか中殺のある人は、
どこか現実の強度が弱くて、
いろいろ変化すること、
現実が変わっていくことに抵抗がない感じがあります。
現実より「感じる」世界を重視するというか。
逆に現実に執着しすぎると折れがちなのが身弱でもあります。
特に壮年期に最身弱の星などある場合は、変化を鷹揚にとらえ、フレキシブルに対応しないと苦しいという面もあります。
世の中の常識に浸かりきっていると、
身弱の人でも現実を一生懸命生きていたりしますが、
身弱とか、
あるいは中殺のある人も、
ちょっと現実から距離を置いて、
世界が変化するその様子を感じること、観察することを試してみると、
最身強の人よりできることのスケールが大きかったりする気がします。
但し、持続性を得るには何か別の要素を必要としますけれど。