金烏玉兎庵

街のエネルギーに対峙する

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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先日、自分に合う土地や場所を見つける話を書きましたら、
「武蔵小杉の駅の活気や人の気につかれるようだ」
ということをお知らせくださった方がいました。

 

人が多く集まる場所というのは、
その場所に象徴されるものをどこかしら自分の中に持った人たちが集まるものです。

 

再開発などで新しくなる街というのは、
そのタイミングで同じような人たちがどーんと集まるので、
その特徴に偏った空気があふれて、
鮮明にそれが体感として感じられたりします。

 

「新しいもの」というのはある種の攻撃性を秘めているので、
それに疲れてしまう人もいるだろうと思います。

 

元気で多様な人が集まる街、
というのは、
言い換えれば自分をアピールするエゴの強い人たちが集まる街でもあって、
その点において同じ方向性をもつ人にとっては刺激的である一方、
もっと静かで落ち着いたものを志向する人にとっては煩わしいものでもあります。

 

これは学校とか会社の気風でも同じことが言えることで、
その気風に合わないと、やはり苦しくなります。

場所の持つエネルギーに負けてしまうと、人生がとても苦しくなります。

なので、
そういう場所で過ごすなら、同じくらいのエネルギーを自分の中に持つ必要があります。

 

これは算命学でいうエネルギー値とは別のエネルギーで、言ってみれば「気」とか「気概」とかいうもの。

簡単にいえば、
自分のなかにある拘りとか、
何かに向かう気力とか、
そんな感じです。

 

何を目指すでもなく、
世の中の常識に縛られて生気がなくなるような生き方をしていると、
エネルギーの強い場所では息苦しいような、阻害されているような感覚があるかもしれません。

 

冒頭の質問への答えは、
その人がその人らしくあることへの拘りを取り戻すと街で疲れることはなくなるでしょう、ということです。
それが例えば武蔵小杉の町の方向と同じでなかったとしても、自分の人生に対する気概が育てば、街のエネルギーに負けなくなります。

 

どうしてもしんどければ引っ越すというのも検討した方が良いかもしれませんが、
今そこに住んでいるということは、
もしかしたら「与えられた試練」であり、
そこで何かに気づくこと、
何かしらの方向性を得ること、
何かの活動に向かうこと、
を促されているということかもしれません。

 

「合わない街」
というのは、
場合によっては「厳しい教師」のようなもので、
そこで何かを得るため、
自分が成長するためのチャンスのある場所、という捉え方もできます。

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