「自分のことが好き」
などというと、揶揄されたりする日本の風潮はありますが、
社会人として何らかの役割を果たしていくにあたっては、
「自分のことが好き」
と言える人(それを口にするかは別にして)であることが必要だろうと思います。
そういう人は安定感があります。
今日お会いした方が、「自分のことが好き」といえるバロメータについて、
・自分の名前が好きだといえるか?
・自分の住んでいる場所を好きだといえるか?
・自分の仕事を好きだといえるか?
の3つを上げておられました。
それを聞きながら、
世の中が相似でできているという東洋思想の考え方に則れば、
自分を本当に好きな人は、
自分のまわりにいる人や自分のまわりにあるものをすべて好きだと言えるだろうな、
と思いました。
それに関連して、
論語に「不惑」という言葉がありますが、
自分のものの考え方とか選択とかに迷いがなくなると、
自分を取り巻く環境も、揺るがなくなる感じがあります。
原典の陰占の巻の通化論のあたりに、
自分の思いが対象に反映される
自分の思いを対象に見るようになる
ということが書いてありますが、
こうして考えると、単なる理論でなく体感としても確かにそうだな、と思います。
ちなみに、
「自分のことが好き」とか、
「迷いない姿勢」とか、
そういうのは地に足がついた安定感につながるものですが、
そういう安定感を得ると、
安定している人と安定していない人の違いがよく見えるようになります。
場合によっては、
迷いのある人と話をしていると、
落ち着かなさというか苛立ちというか、
モヤモヤしたものを感じることもあるのですが、一方で、
若い頃の迷いの中でうろうろしていた私を見ていた不惑な人たちは、
さぞイライラしただろうと思ったりします。
自分が安定してくると、
組織というのはほとんど安定した人しかいないことに気づきます。
なので、
不安定な人がとても目立ちます。
何かしらの目的をもっている組織や集団で、
その目的を果たし続けている組織や集団の場合、
それを構成している9割くらいの人は安定している人なので、
不安定な人はけっこう目立つ。
ただ、それが組織のスパイスになることもあるのでダメなわけでもないですが、
安定志向の上司の元だとちょっと苦しいかもしれません。
で、
冒頭の話に戻るのですが、
不安定な人、
揺らぐ人というのは自分のことを好きになると良いらしいです。