小林秀雄という思想家は、
優れた歴史考証家であったと同時に、
類まれな芸術鑑賞家であったとも思います。
私が音楽を建築物のように、
絵画を哲学のように鑑賞するその感覚は、
多分に小林秀雄の影響です。
一方、
歴史考証、という面では、
神社⛩などの歴史建造物を訪れるときくらいしかあまり意識していなかったのですが、
(高校の教科書に載っていた『無常といふ事』で、日枝神社において歴史にあそぶその感覚が紹介されていた、それが印象深く)
昨日仕事を終えてから、
たっぷり時間を使って十干十二支に象徴される空間感覚、時間感覚について思索に耽っていたその最中、
ふと、小林秀雄がその晩年に書いた『本居宣長』で言いかけた歴史との向き合い方というのは、こういうことなのかな?
と、思いました。
「言いかけた」
というのは、その本が結構な分量で、私が読みかけにしているので「読みかけ」になっている、
それで私は、小林秀雄が話の途中で止めてしまった、「言いかけ」になっている、私はそんな印象を持っている、ということです。
歴史を振り返るとか、
その時代の思想を理解するとかいうとき、
書籍によってできることは、案外と少ないように思います。
文字や言葉というのは単なるシンボルなので、それによって伝えられることには限界があります。
ではどのように歴史を振り返り思想を理解するか、
そのアプローチのヒントが小林秀雄の『本居宣長』にあるかな?
と思いました。
ちなみに、
私は日本人ですが、
その思考回路や環境認識の方法は西洋思想的です。
東洋に脈々と伝わってきた思考回路や環境の認識方法を失っているな、と思います。
月を眺めてあれは球体だと感じる感覚とか、
月日が直線的に経過していく感覚とか、
人が誰か、あるいは世界に働きかけられると信じているその感覚とか、
そういうのはとても西洋的で、
多分、古代東洋の感覚とはかけ離れています。
おそらく、
算命学で読み解く宿命や運命というのは、
その古代東洋の世界観を知らずして真の姿を見ることは出来ないのだろうと思います。
私は東洋の円環的な時間感覚を得たくて、
生活の中から時計🕰やカレンダー📅をなくしました。
黄帝内経にある生活の実践で、
朝は太陽が目覚まし時計代わりなので、最近は朝5時前に目が覚めたりします。
そういう生活を通して精進し、
古代東洋の世界観にたどり着きたいな、と思っています。