「平成」が終わるにあたり、つらつらと考えています。
天皇陛下の即位から30年、
己巳の年に始まった平成は、その納音にあたる己亥である今年、終わるのだな、
と考えていてハタと気づいたのですが、
私にとっても己巳は律音の年、
そして今年己亥は納音の年にあたります。
あまりこれといってそれらしいことはなかったように思っていたのですが、
準律音、準納音を含めると、
しっかり大きな出来事が起こっていました。
準律音にあたる年には、生まれた岡山から東京へ。
そして準納音にあたる昨年は、その生まれた土地にあった生家が水没し、このGW明けに解体されます。
律音は再スタートの時期といいますが、
確かに東京圏に来たタイミングで出会った人や教育の中でいわゆる「生きる」ことのビジョンを得ましたし、
納音は折り返しといいますが、
昨年、今年と、律音以来過去目指してきたものとある意味での決別をし、
本質的な自分の目指すものに向かい始めた感じが明確にあります。
律音と納音。
自分の命式は何度となく見返してきたつもりですが、そのことに今日気づきました。
律音と納音ということについて、
律音はスタートとかリスタート
納音は折り返しとか収束
…などと言われてもピンとこないと言われることがけっこうあますし、
実際自分でもピンとこないと思うものもあります。
が、物事の意味というのは、
多くの場合、その物事が起こっている真っ最中には気づきにくいもの。
少し引いて、大きな流れの中でその意味を捉えていって初めてそれがスタートの時期だったとか折り返しの時期だったということに気づくものなのかもしれません。
そもそもですが、
スタートとか折り返し
というとき、
何を目指し、どんなテーマに取り組むか、という内容が分かっていなければ、
何がスタートで何が折り返しか分からないものでもあります。
その内容というのは、
自分の本質を顕現させていく、
自分の宿命を生きていく、
というその内容なわけですが、
最初からそれを自覚している人は少なく、
むしろ人生の中でそれを探し出会うものであったりします。
そう考えると逆引き的に、
律音でスタートさせたことは何か?
納音で壊れて残ったものは何か?
ということについて、
丁寧に振り返り吟味していくことで、
自分という命が何のために生まれて、何を目指すのか?
ということの答えを得られるのかもしれません。
仙人のような占い師であれば、
命式を見て、
「あなたはこのために生まれてきました!」
と言うことがあるのかもしれませんが、
(そんな占い師に出会ったことは残念ながらありませんが)
自分の人生について一番よく知っているのは自分です。
運命とは命式と環境の産物で、
占い師が読めるのは命式のみ。
その意味では、それぞれの人がその命式という枠組みのナビゲートを得て自分の環境を振り返りつつ、
その意味に出会っていく必要があるように思います。