ちょうど「時間」について考えていたら、
2年前の今頃も時間について考えていたみたい。
(Facebookの「過去のこの日」に出てきました。下に2年前の投稿も引用しています)
腕時計を持たなくなって10年くらい、
家にも時計を置かず、よほどのことがない限り時計は見ません。
時計を見なくなると、起こる出来事ごとのタイミングのリズムや意味などを捉えやすくなります。
目の前のチャンスに敏感になりますし、
それを先送りにしなくなります。
その「時間」で得られた記憶や感覚が溜まっていき、醸成され、とても豊かな気分になります。
時間を気にして忙しなくしている人とは友達になれなくなります 笑
時間感覚には、
直線的な時間感覚と円環的な時間感覚があります。
前者は西洋的、キリスト以降直線的に時間が真っ直ぐに伸びている感覚で、
後者は東洋的、輪廻がめぐるように干支が60の次に1に環るように巡る感覚。
円環的な時間感覚は同じことがぐるぐるまわる感覚なので、退屈そう?と言われたりしますが、
同じことの意味を深く認知できたり、
成長に応じて同じことの別の側面が見えるようになったり、
先を急ぐことなくその瞬間瞬間を捉えていくことが出来るような性質があります。
円環的な時間感覚は、カイロス時間ともいわれますが、カイロスは前髪しかなち神さまで、よく「チャンスには前髪しかない」と言われるあの元になった神さまです。
日本語でいえば、「二念を継がない」という言い方になります。
present(今)はプレゼント🎁
というのも同じ意味です。
※以下、2年前の投稿。ちょうど東洋思想を学び始めた頃。算命学に出会う直前です。
易経講話における
「永久に完成されないということが宇宙の情態であり、人間世界の情態である。」
というフレーズに、小林秀雄の『無常といふ事』の世界観を感じるよね、
というお話をしていて思い当たったのですが、日本、というか東洋思想における時間感覚は、西洋の直線的なそれと異なり、円環的。
要は小林秀雄の感覚も東洋思想的、円環的、ということなわけですが、そこを敷衍すると、小林秀雄の世代の有識者というのは、この世界観を持って生きていた、とも言えます。
直線的な時間感覚に比して、円環的な時間感覚は豊かで深く味わいがあります。
そんなことを考えるに、
戦前の時代というのは、文化教養において恐らく最後の「ホンモノ」を知る「層」がいた時代なんだということを考えました。
今はたぶん「層」よりもずっと小さな「集団」になっていて、
富と文化教養が正比例しないことによるちぐはぐさの時代。
長い歴史で見ると、極めて特殊な時代とも言える気がします。
今後どんなふうに世界が展開していくのか、それを考えるのも楽しい感じ。