縁というのは出来てしまうだけで消耗することがあります。
これは、縁というものが人とのつながりであり、
つながりは自分の意図を反映するものなので、
善意に基づく縁であれば喜びが、
悪意に基づく縁であれば苦しみが降りかかるためです。
そして、その縁につながっている限り、
善の縁であれば元気や力を得られ続け、
悪の縁であれば吸い取られ続けることになります。
丁寧に自分の心の動きを見つめ、
人と会ったあとの自分のコンディションを細かく振り返るようにしていると、
そのことが本当のことであることが分かります。
つながりを断つことは少し怖いと感じる人もいると思いますが、
自分らしくいられない、
相手にイライラする、
共感できない、
そして何より、
会ったあと、ひどく疲れる人というのは、
絶つべきですし、断てないとすればそれは執着によるものです。
相手への執着、現状への執着、自分への執着。
執着による関係は、どんどん消耗します。
星の陽転・陰転というのがありますが、
消耗する状態というのは、
星が陰転していくことにつながります。
一方で、
気分がよく、機嫌よく、
晴れやかな気分で、
中庸の姿勢をもってまわりの人や環境と対峙できているときというのは、たいてい陽転しています。
十大主星にせよ、十二大従星にせよ、
もっているだけでそこに良し悪しがあるのではなく、
陽転させることができて初めてその本質的な良さが発揮されます。
そうした良さを引き出す関係でないなら、
それは離れてしかるべき、と思います。
世の中には、合わない環境や一緒にいて悪く作用する関係というのがあります。
それは、
「絶対的に悪いもの」があるわけではなく、
自分と相手あるいは環境との相性があるということであって 、相対的なものなので見分けるのが難しいのですが、
それを見分ける指標は案外と「気分がよいかどうか」ということであったりします。
そしてそれはつまるところ、
気分が良くない相手や環境からは離れるべきということということができます。
(精神が未成熟な場合の単なる「逃げ」とは異なることにはもちろん注意が必要です)
現在、無料開放中の『三国志』の序盤、
関羽が「枳棘非鸞鳳所棲(くきょくひらん ぽうしょせい」という言葉を挙げてそのことを言っています。
この言葉の意味は、
棘(いばら)や枳(からたち)のようにトゲのある木の中にはよい鳳(とり)は住まない、という意味で、
劉備のような存在が地方の警察署長に甘んじていることについて、関羽はこの言葉を挙げて「我々もまた住む場所を誤った」と言っています。
健やかに、前向きに、
そして発展的にいられる場所というのは、どこかに必ずあるもの。
自分にとって合う環境とはどんな環境かをよくよく吟味して生きていくことが大切なのだろうと思います。
なお、算命学では「環境の一致」の大切さを説きます。
気分の良さという曖昧なものを信じることが難しい場合、算命学がもう一つの道標となります。