あまり人のことを言えたものでもありませんが、
何かを一方的に批判する人、というのは中庸を欠いています。
何かを一方的に批判し続けることで、
もしかすると何かを動かすことが出来るかもしれませんが、
それによって恩恵を得ることはありません。
言ってみれば、
何かを一方的に批判する人というのは、
貧乏くじを引く人です。
例えば、
とあるリーダーを批判する急先鋒の人というのは、動乱の最中においては英雄になり得ますが、
動乱が治るとその役目を失い、
新たなリーダーになるのは別の人、
ということの例は枚挙にいとまがありません。
例えば明智光秀は織田信長を倒したかもしれませんが、天下を取ることはできませんでしたし、
明治維新の英雄は、
明治政府の幹部にはなりませんでした。
海外に目を移せば、
フランス革命やアラブの春というのも、批判の極において起こったものですが、いずれもその批判の極を担った人たちが順当に権力を掌握した例はありません。
中庸、というと、
日和見主義の誹りを受けたりするものですが、
穏当に生きていくことを考えれば、
欠くべからざる在り方といえます。
どうしても批判の極を担うときは、
より大きな誰かのための大義名分を準備しておくことです。
(「何かのための大義名分」ではないことに注意が必要です。)
そうすることで、その大義名分が身を守る傘になります。
例えば待った無しの社内改革を断行するなら、
会社をよくする、という大義名分を掲げて極を担うとその恩恵はすべて自分にめぐるので、その反対の効果もすべて自分で担うことになりますが、
それが「誰か」のための大義名分であれば、その恩恵はその「誰か」を通したものとなるので軟着陸させることができます。
何らかの集団(それがサークルや町内会のような小さな集団であっても)において恩恵を一人で受ける場合は、
何らかの反対の効果、ネガティブな効果を覚悟する必要があります。
三日天下で良いならばそれも良かろうと思いますが、
長くその恩恵を得て、穏当に生きることを望むなら、
誰かを盾にするか、さもなければグループでその恩恵を受けるのが無難です。
もっとも、
算命学では実はこうした偏りを担うべき命式というのもあります。
いわゆる一気格(命式の五行がすべて同じ五行)とか鳳蘭局(星図の十大主星がすべて同じ星)などです。
鳳蘭局が一代運といわれるのは、中庸を欠くために永続しない、ということ。
永続しない代わりに、
極を担い世界にインパクトを与えることができる人でもあります。
但し、こうした人たちは何パーセントかの特別な人たちなので、
やはり一般的には、中庸を意識して在ることが望まれるように思います。