本質を体現していくその道筋は山登りに似ています。
先ほどそんなことを書きましたが、そのことについてもう少し考えてみました。
海外ドラマ『グッドワイフ』で、
事務所のマネージングパートナーであるダイアンが最高裁判事の推薦を受けるにあたり、長年の同志であるウィル(過去に少額の盗難により資格停止処分を受けている、本来なら資格剥奪のところをダイアンの尽力により停止で済んだ。)を切るよう、最高裁長官に諭されている場面。
最高裁の判事といえば、法律の体現者、良心の権化でなければならない存在ですが、
ダイアンはこれまで様々に善行を積み、ときにリベラルに寄りつつもバランス感ある弁護士として多くの人を救ってきました。
そうしたことが評価されての最高裁判事への推薦です。
(背景はいろいろありますが)
そしてこの場面。
最高裁判事になるなら、法律違反をした同志を切れという長官。
「同志を切れ」とは非情過ぎると多くの人はいる思うはず。
ダイアンもそう思いました。
引用したのは、それに対しての最高裁長官の言葉です。
「法律というのは例えるなら山だ。
君は長年ゆっくりとその山を登ってきた。
我々はそれを頂上から眺めていた。
そして今、君はここにいる。
やっと到達した、頂点に。
ここに残るか、滑り落ちるか。」
そんな会話が続きます。
それに対して「残りたいです」というダイアンの言葉に対する長官の答えは、
「それなら詭弁など使うな。」
というもの。
これは「本質を体現せよ」という意味と思います。
本質を体現する場所まで来て、それをしないのは、それに未達の者にも劣ります。
そこまできたら、確かに「残るか、滑り落ちるか」の二択しかありません。
地位の高さは本質の体現度合いに比例します。
これは、最高裁でも会社でも、どんな組織でも同じです。
その組織を体現する人が、偉くなります。
宿命を生きるのも同じです。
自分の本質を純度高く高い次元で光らせる人ほど注目され、
紛い物を含まないその純度に比例して影響力を持ちます。
そして、ある程度の純度まできたら、
登るか堕ちるかどちらかの選択肢しかない。
輝くか、淘汰されるかしかないということです。
甘えやごまかしは、濁り本質を損なうもの。
ダイアンの立場からすれば、
これまで頑張ってきたことが評価されたのであれば、
細かいことをしのごのいわずに最高裁判事にしてくれてもいいのに、と思うわけですが、
最高裁判事という頂点の場所に、その濁りは禁物です。
よって、視聴者的には残念ですが、
ダイアンの起用が見送られることはこの時点で決まっていたと思います。
ドラマの中では実際には紆余曲折があり、別の理由で共有が見送られたと思う人もいると思いますが、
話の筋をきちんと追えば、この時点でダイアンの運命は決まっていたとみるのが順当です。
法律を純度高く体現できない人に、最高裁判事は務まりません。
とはいえ、
同じようなことを、ダイアンはアリシアに何度か言っていますので、多分、わかった上でそう答えたはずです。
(アリシアがパートナーになるときと、パートナーになってからの2度、同じようなことを言っていました。)
ちなみに、『グッドワイフ』はリドリー・スコットとトニー・スコットの兄弟が監修していますが、こうした筋や伏線がものすごくしっかりしているので勉強になります。
英語の勉強も兼ねて既に何度も観ていますが、まだまだ観ます。