金烏玉兎庵

「庶民的」と散法の捉え方

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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「庶民的」という言葉があり、
ある年齢以上の人は極端にこの言葉を嫌がることに最近気づき、言葉を選ぶようになりました。
より若い世代で「庶民的」というときは、割と「普通の人っぽい」くらいの意味ですが、世代によっては「下賎な人たち」のように受け取られることもあるので注意が必要です。

算命学で己は「庶民的」と言われたりしますが、これは、神様の住む人の立ち入らない場所としての戊(山)に対するもので、たくさんの人と交流できる場所という意味です。
己は平地、昔でいえば田畑、今でいえば人のたくさん住む街や都市です。

古代東洋に思いを馳せれば、
城郭というのは王様と公家、そして軍人の限られた人たちの場所で、
たくさんの人がいるのは農村の田畑だったため、田園と書かれたりするのですが、
これを今の感覚に修正すれば、
やはり都市部ということになるように思います。

ちなみに、
最近、私が算命学について人に話をするときに「庶民的」という言葉を使うときは、
「モノゴトを片方からだけ見つめる人」
を指しています。
モノゴトには良い面と悪い面があり、
その両方を見据えて物を考える視点を一極二元と言いますが、
その視点を得られる前の「普通の人」という意味で使います。
「大衆」という言葉に近く、
大衆とは大多数の人であってパレートの法則でいうところの8割の人、
大衆迎合主義という言葉は、
モノゴトを片方からだけ見て判断する人たちが喜びそうなある種短絡的なやり方をいうものです。

算命学を浅く学ぶと、
吉凶があり、例えば散法といわれる対冲とか害とか刑、破、これに付随して天剋地冲や納音などは、凶といわれることが多くあります。
大衆的、庶民的、大多数の片方からだけものを見れば確かに凶といわれるのも納得の性質があり、これはこれで間違いではありません。

しかし、散法はそもそも、モノゴトを分離し散じる気の流れであるというだけのことであって、そこには善悪はないというのが算命学の考え方。
そもそもですが、算命学は森羅万象、自然の論理を説く学問で、あるがままのモノゴトの仕組みを論じるのであって吉凶、善悪を論じません。

また、算命学は帝王学、支配者の学問といわれるのもこうした所以によります。

全体を俯瞰してあるべき判断をするべき立場にいる人が身につけておくべき視点。
一方、片方だけから見る視点は被支配者のものであって、まさに庶民的、大衆的です。
「支配者の視点」という言葉に抵抗のある人も、「被支配者の視点」といわれると、「それはちがう」と思われると思います。
自分の人生は、自分が王様であって、
自分が自分の人生の支配者である、
ととらえ、多くの人が「支配者の視点」である一極二元の視点を得られるといいなと思います。

以下、参考に散法の意味について、拙いながら一極二元の視点をご案内しておきます。

対冲は破壊といわれますが、壊れたほうがいいものもあり、壊れた先に生まれるものがあるという意味もあります。

害は自然の流れを阻害するといわれますが、不自然な中でしか出会えないものもあり、そこに新たな発見があることもあります。

刑はケンカや葛藤といわれますが、順うばかりでは大きく成長できないこともあり、ケンカや葛藤を経てしか得られないものもあります。

天剋地冲は精神的な葛藤と現実的な破壊が同時に起こるので大きな衝撃を伴うとされますが、この関係は60干支のうちの2つだけ。
生きる上での新陳代謝として必要なプロセスといえます。

納音に至っては60干支のうち自分の干支の反対側にある1つだけのもの。
人生の転換点です。
納音までは大きく人生が開き様々な経験をする時期、
納音からはそれまで学んだことを自分の宿命を果たすためにまとめていく時期。

なお、対冲や天剋地冲、納音は、
宿命から大きく外れている場合、その衝撃は大きくなりますが、それによって本来の道に戻れるものでもあります。

これらの時期、考えなく大きな行動をするとガツンと衝撃がきたりもするので、
できるなら控えめに受け身に、
そして自分のためではなく人のため、世の中のために過ごすと禍が浅いといわれます。
また、精神性の高い人はこれらの禍を受けにくいともいわれますので、精神性を高める生活をするのも良い過ごし方です。

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