金烏玉兎庵

宿命中殺のある人の生き方

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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何度か書いていますが、
私のまわりは本当に宿命中殺のある人が多くいます。
このところ、身近な人の命式を拝見するようになりましたが、親しい人を取り上げれば、その宿命中殺のある割合はたぶん8割以上。
仲の良い人同士の命式を拝見すると、命式がとても似ているものですが、
私に宿命中殺があるので、同じ宿命中殺のある人に惹かれるのかもしれません。
(ちなみに、宿命中殺がなくて惹かれる人や親しい人は日干が干合しているとか、同じ天中殺の人とかです。)

宿命中殺があるということは、
どこかしらの星が中殺されているということで、中殺された星というのはコントロール不能になるということを先日書きましたが、
これについて補足すると、
中殺された星というのは、自分の意図やビジョンが、個人という枠におさまらない、ということです。
よって、個人的な願望や目的を目指す場合、その星は制御できず、結果として自分の意図と反する結果になりがちです。
一方で、その意図やビジョンが個人の枠を超え、社会的な価値を目指し、世の中で役割を果たすという観点に立った場合には、その星は美しく消化され実現に向かうように思います。

枠のない世界観は、枠の中にあっては歪み、枠のない世界を得てはじめてバランスするのかもしれません。

宿命中殺のある子供は、
社会の子供として育てなさい。
と言われます。
自分の子供としてではなく、
神様からの預かりものとして育てるのが良いとされます。

宿命中殺がある場合、どこかの部分において個人という枠がない状態で生きているので、「個人」として生きようとすると、早晩、違和感を生じ、壁にぶつかります。

感覚として、
「なぜ、人と同じようにできないのか?」
「なぜ、‘普通’であることに価値を見出せないのか?」
というものを、常に抱くことになります。

よって、宿命中殺のあるひとは、社会の子として社会において役割を果たすことを目指すことが望まれます。
そうして個人の欲求を淘汰し、社会における価値や役割に向かって初めて平穏を得られるともいえます。

家族というのは自分を守ってくれる一つの枠ですが、
中殺は枠のない状態であるため、
宿命中殺がある場合は、家族という枠を早い段階で離れるのが良いとされます。

羽生結弦選手には宿命中殺がありますが、
彼が大震災を経て実家を離れ、「仙台のために」という役割を得て大きな飛躍をしたのは周知のとおり。

宿命中殺のある人は、
自己主張をしないほうがいいとか、
自分の利益を目指して転職しないほうがいいとかいわれます。
それが個人的な欲求や願望である限り、多くの場合、意図しない方向に向かってしまうため、「生きにくい」とか「苦労が多い」と言われたりするのですが、
これが社会的な価値や世の中での役割を果たす場合には、とても健やかに在ることができるように思います。

苦しいとされる宿命中殺ですが、
私のまわりにいる人たちは本当に生き生きと健やかにおられます。
彼らの共通項は、
「地域のために」「社会のために」「世の中のために」何かの活動をしているということ。
「自分のために」とか「家族のために」、あるいは「会社のために」活動されていたりもしますが、その過程において「世の中のために」という基準に反することがあった場合においても、個人的な事情によって何かを歪めることのない人たちです。

そんな人たちを見ていて思うに、
宿命中殺のある人は、
枠のない世界、世の中とか社会というフィールドでどんな役割を果たせるか?
という視点を持つと良いのだろうと考えています。

これらは、必ずしも教科書になく、また先生から教えていただいたものでもないので、正しいかどうかはまだ検証中ですが、
ここ数日で確信に近いものを感じ、
私自身の指針として参考にしようと思ったりもしたので、ここでご案内しておきます。

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