禅の言葉に「不落因果(ふらくいんが)」「不昧因果(ふまいいんが)」という言葉があります。
とあるお坊さんが、
「修行をたくさんした立派な人は因果の報いを受けなくなるか?」と問われて、「不落因果(因果の報いを受けない)」と答えたために500回もの生を狐に落とされたという禅の公案に出てくる言葉です。
この正しい答えは「不昧因果(因果に昧(くら)まない)」、つまり因果の報いは受けるけれど、その因と果の道筋を見通してかつそれに囚われない、因果を超える視点を持つということ。
算命学において、高尾宗家は精神性を高めることによって、天中殺の禍を自らの身ではなく周りの環境に見るようになるとおっしゃっているのですが、
それもこの公案と同じ意味なのだろうと思います。
今世において人間は天地人三界を超えられず、よって因果律を超えることはできないけれど、
それを超える視点を持つことはできる。
物事の道筋を見通して、起こる出来事に備え、一方でそれを活かす姿勢ともいえる気がします。
それと合わせて、
何事も「正しいと信じて固執すること」はとても危険な(500回も狐として生きることになるような)ことであるということも心に留めておく必要があります。
この公案は、
算命学で学ぶこと、先生から教わることや教科書から学ぶことを真摯に受け取ることは大切だけれど、
日々それが真実かどうか?という視点を謙虚に持つこともまた大事である、
という教訓でもあるのだろうと思います。
なお、算命学では「因縁」という禅語もよく出てきます。
よくない因縁を作ると禍を受けるわけですが、
「果」を生じさせる直接の原因を「因」といい、間接的な原因(事情や状況、つながり)を「縁」といいます。
そして「因」や「縁」から起こす人間の行動や思念を「業」といい、その「業」を真正面から受け止めて生きることで道が開かれるといいます。
不昧因果の視点であらゆる「業」を真摯に受けとめて生きることが、望まれる生き方なのだろうと思いました。