先ほどご紹介した海外ドラマ『スキャンダル』の続きです。
このドラマは主人公の女性フィクサーと大統領の不倫ロマンスが一つの軸にあるのですが、
ファーストレディは時にそれを怒ったりはするものの、総じて彼らの不倫を許容しています。
これについてその理由を考察したので書いておきます。
以下ネタバレを含みます。
この二人の不倫についてファーストレディであるメリーが許容し続けたのはなぜか?
これについて「権力者には愛人がつきものだから」と片付けるのは早計で、実際このドラマのシーズン5においてメリーは、フィクサー兼愛人であるオリビアに、
「フィッツ(大統領)といるとすごく消耗する。まわりにちやほやされて育った彼は軟弱で、彼に自信を持たせるために褒めて持ち上げて励まして鼓舞して、すっかり疲弊した。
でもあなたが現れたおかげで自由を得た。
あなたが彼の欲望を引き受けてくれたおかげで私は自分のことを考える時間を得た。」
…と語っています。
なんともサバサバとした物言いですが、
このメリーは「大統領の妻」そしてその先にある「自分が女性大統領になる」ということに対する思い入れはあったけれど、
夫(大統領)自身に対する愛情は然程なく、
「心が通い合い互いを思い合う結婚」にはさして興味がなかったのだろうと思います。
それよりも、結婚のカタチ(本質ではなく)、結婚による恩恵(政治的野望の実現)のほうに価値を置いていたから2人の不倫も自分の野望に資する範囲においては許容できたのではないか。
「結婚」というものを男女の尊い愛情の交感の先にあるものと信じている人からは叱られるかもしれませんが、
結婚というのは必ずしもそういう個人の愛情の交感のみによって成るものではありません。
現代のような個人の権利全盛の時代にあってはひどく非常識であるかのように思われるかもしれませんが、
ほんの100年前までは、個人の感情など結婚においては歯牙にもかけられなかった時代が続いていたことを考えればご理解いただけるのではないかと思います。
実は、算命学ではその命式により、
相手の人間性に惹かれて結婚するタイプ(ココロタイプ)か、
相手の家柄やステータスを重視して結婚するタイプ(カタチタイプ)かを観ることができます。
(両方をともに大事にするタイプ、というのもあります)
ココロタイプはより本質的なことに向かう傾向にあり、
カタチタイプは本質よりも形式、現実的なことに向かう傾向にあります。
このように書くと、ココロタイプには心の満足があり、カタチタイプには心の満足はないのですね?と言われたりするのですがそうではありません。
ココロタイプの人間性や本質的なものを得ることを目指す人が、それを得ることにより心の満足を感じるのと同様に、
カタチタイプの家柄やステータス、形式的なことや現実的なことを目指す人たちも、それを得ることにより同様に満足を感じています。
逆に、カタチタイプの人たちはいくら人間性や本質がそこにあったとしても、それに満足はしないという言い方もできます。
思うにメリーというのは、このカタチタイプなのではないかと思ったのですがいかがでしょうか。
ちなみに、堅確な現実の世界を築き上げていくことができるのは、カタチタイプの人たちです。
彼らが仕組みをつくり、組織をつくり、建造物をつくり…文字通り「現実の世界」を創っていきます。
場合により、ココロタイプの人たちはそういう仕事を形にとらわれた中身のない、退屈な仕事だと思ったりするのですが、一方でおそらくカタチタイプの人たちはココロタイプの人たちが目指す本質というのを手触り感のない空論であると感じていたりします。
堂々巡りになるのでこれ以上は重ねませんが、
言いたいのは、人にはそれぞれ価値観、生き方、役割があり、
それがマッチしているなら、一人の男性を挟んで妻と愛人が役割分担する、というのもありなのかもしれないな、ということです。
これは不倫を支持するわけではなく(私は不倫に関するご相談は受け付けておりません)、
ココロタイプとカタチタイプはそれぞれ役割も価値観も考え方も異なるので、そういう二人の女性であれば、上手に併存できるのかもしれないな、ということです。
よって、二人の女性がともにココロタイプ、あるいはともにカタチタイプであったら、けっこうしんどいことにもなるようにも思います。
なお、ここではメリーを中心に、結婚においてカタチを大事にするタイプ、ココロを大事にするタイプ、ということを書きましたが、
これは結婚に限らず、満足する仕事の内容や資産形成の方法、人間関係の作り方などにも色濃く反映するタイプ分けであるように思います。
※このタイプ分けは少し影響が大きそうなので、その詳細はサークルの「数理法で見る出会いから結婚、結婚生活まで」の3回目に書いています。
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