「必然的な未来」というのがあります。
例えばいくつかの背景といくつかの性質、いくつかの事象が組み合わされると、こうなるだろうというようなことは、算命学を知らなくても、ある程度予見、予測、予言することができます。
こういう未来というのは「必然的な未来」であり、
多くの人にとっては「未来」でも、
見通せている人にとってはほぼ揺るぎない「現在」、まだ見えないけれど確実に手触り感のある、必然的にそうなるであろう「現在」であったりします。
恐らく、ある程度ガチンコの世界で働いているような人は、
新聞やwebで流れているニュースや、SNSで流れている情報、自分のまわりで起こっている出来事や人の様子を眺めることで、これからどんなことが起こり、どんな未来がやってくるのか、ある程度予見できます。
あるいは、
取引先や上司部下、同僚などの仕事関係者はもちろん、自分のまわりにいる親にせよ、友人にせよ、
こういうことがあったらあの人はこういう行動をとる、というようなことも、たいていは予見できます。
それがその人にとって本質的に益するものなのか、幸せなものかどうか、ということも、かなりの確度で分かります。
但し、物事における「必然的な未来」であれ、人に関する「必然的な未来」であれ、そのように「分かっている」こと、その予見や予測、予言というのをまわりの人やその当事者が納得し、受け入れるかといえばまた別の話。
多くは目の前の「役に立ちそうに見えること」「幸せっぽく見えること」が自分の最善であると信じ、
あるいはその「役に立ちそうなこと」や「幸せっぽく見えること」を、自分がかねてよりずっと希求してきたものだと言い張ったりして、
頑なにそういう客観的で理論的で真理を突いたような予見、予測、予言というのを断固として否定します。
前者は理的な世界、後者は情的な世界ということができるのですが、
必然的な未来というのは、とても理的なもので、情的な在り方とは相入れないものだからです。
ちなみに、同じ理屈で理的な人は、ある出来事やある行動などの背景に誰のどういう意図があり何が原因になっているかということもかなりの確度で分かります。
起こる出来事、現実に為された事柄というのは、
その流れを精緻に追えば誰にでもそれを理解することができるもので、隠すことはできません。
それでも情的な人の場合、それを知るのは難しいように思います。
なぜなら彼らはその為された事実と起こる出来事の因果関係から目を背け、その事実を受け入れようとしないからです。
理的な世界においては、
1+1が2になるのと同じくらいの必然性をもって、その出来事は起こる。
あるいは、ある事象の理由を探ろうとする場合にも、1+1が2になるのと同じくらいに必然的な背景があります。
よって、明確に、クリアに、確実にその未来と過去を見定めることができるのですが、
しかし、理的な世界は痛みを伴う。
よって、情的な人たちはその痛みを避けるために現実を否定し、事実を歪めて生きています。
上記にも書いたとおり、ある程度ガチンコの世界に生きている人であれば、算命学に寄らずとも分かります。
おそらく、会社の経営をされていたり、何千人もの人に会い、その人たちと何らかの利害の絡む関係を築いてきたような人であれば、分かることです。
その意味で、彼らには算命学の知識など必要ないといえるかもしれません。
そもそもですが、算命学の起源は万象学にあり、森羅万象を観察していれば、おのずと分かるものなので、
別に陰陽五行や十干十二支を知らなくても、陰占や陽占を知らなくても、
起こることを観察していれば分かるということでもあります。
但し、その視点を得るには情を超え、理によって物事を眺める必要があり、その理的な視点をもってはじめてたどり着ける視点であることを忘れてはいけないでしょう。
算命学というのは、そうした理的な視点の粋ともいえるものです。
よって算命学の担い手が命式を読むときには、厳格で揺るぎない理的な視点が要求されます。
一方で、生活というのは極めて情的なもの。
よってあれこれと書きましたが、情的なものが悪いわけではありません。
家族や友達のような関係の世界では、情的なものが人や物事を育みます。
算命学を学ぶ者は理的なものと情的なものの両方を備える必要があります。
命式を読むときは理的に、それを伝えたり現実に落とし込むときにはある程度情的なものを加えていく必要があるためです。
そうでないと伝わらない、血の通った現実に根付く知識にはならない、ということです。
算命学を学ばない人でも、ある程度物事を俯瞰し、物事を主導して動かしていこうとするならば、やはり同じように理的な視点と情的な視点が必要になるだろうと思います。
会社組織や官僚の世界などでコマとして働くなら理的なもの一辺倒でもやっていけたりしますし、
家族や友達との世界であれば、情的なもの一辺倒でもやっていけます。
しかし、その両方を俯瞰し、その本質を知って関わっていこうとする場合には、当然その両方を備える必要があります。
そしてその上で、
「必然的な未来」を先取りしながらやっていこうとするならば、その主軸には理的なものがあらねばなりません。
なぜなら、理的なものは揺らがない、つまりそれは道標であるからです。
昨日は22時からzoomでご相談を承った方が算命学の鑑定をされている方だったのですが、
そんな話をしたので記録として書いておきます。
と、そんなわけで昨晩は更新できずすみませんでした。
今日はもう一つどこかで何か書きます。
※高尾宗家のお言葉を参考とさせていただきました。
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