『意味のない仕事をする人の方が高給という矛盾はなぜ起こるのか?』という記事を読みました。
この記事でいうところの「意味のない仕事」というのは、社会という構造体を維持するための仕事、ともいえるのですが、
それについて考えたことを書いておきます。
世の中には、
①自己実現的な仕事
②本質的に世の中の役に立つ仕事
③社会という構造体を維持するための仕事
の3つがあります。
①は誰しもが目指したいと願うものですが、
そこ至るためには②③の両方を経験しておく必要があります。
(経験しないまでも、少なくとも理解しておくことは必要です)
これは、
自分が本当に向かいたい仕事というのはそれ以外の仕事との比較において気づくもので、①の自己実現的な仕事しか経験したことがなければ、それが本当に自分が選ぶべき仕事かの判断の「基準」がないこと
①の自己実現的な仕事をするフィールドは一般社会であり、その社会環境がどのように成り立っているのか、
つまり、本質的に世の中の役に立つ仕事は社会という構造体が維持されているその上に成り立つものであることを認識し、それを踏まえて自己実現的な仕事を構築する必要があること、
の2つの理由によります。
次に、
②の本質的に役立つ仕事と③の社会という構造物を維持するための仕事ですが、
たいていの人は、②よりも③のほうに流れます。
②と③の関係は、
もともと②としてあった仕事が長い期間を経③の仕事に変化していることも多いのですが、
これをその仕事を選択する側から見れば、
彼らは成長するプロセスにおいて、
「世の中という枠組み」の中でり上手に社会という構造体を維持するためにどうあるべきか?」ということを、子供の頃からの人間関係や社会との関わりの中で自然に学ぶことができていて、
そういう人というのは「世の中にきちんと順応する」「枠組みを外れることなく仕事をする」というのはイコール③の仕事に熟達することだと考えるようになるためです。
このことは、
ある面では「世の中に埋没する」ということでもあるのですが、
埋没する=社会維持の仕組みの一員になり切る、ということであり、
その一員としての存在感を発揮すればするほど評価され、高給取りにもなっていったりもするので、そこに疑問を抱くことなく生きていくことができます。
(世の中は、自動的に現状維持を目指すようにできていることは先日書いたとおり)
なにかきっかけがあれば、①や②に気づいてそれに向かうこともありますが、それに気づくことなく③を自然に受け入れて生きていく人も多くいるように思います。
では、①や②に向かいやすい人はどういう人かといえば、
①でいえば例えば大きく偏りのある命式の人、
②でいえば宿命中殺や異常干支のある人などがそういう人に当たるのではないかと思います。
大きく偏りのある命式の人は、前にも書いた通りそもそも自己実現的な仕事「しかできない」人たちでもあり、それ以外の仕事をやる余地はありません。
それ以外の仕事に就いても大きな違和感に苛まされます。
宿命中殺や異常干支のある人は、
世の中に本質的に必要な仕事というのを見抜く才能が先天的にあります。
そして、その鋭い感性で本質的に必要な仕事を見抜くが故に③を理解することができず、結果として会社や社会で浮く存在になる傾向があります。
どちらの場合においても、
彼らは①や②にダイレクトに向かう素養を持ってはいるのですが、にもかかわらず、その多くが③を理解できないこと、③を上手にこなせないことがトラウマになってむしろそこに固執してしまう、ということもよくあります。
③というのは、前者にとってはある安楽の地であり、後者にとっては苦難の地という違いはありますが、どちらもそこに嵌まり込んでしまうという点で共通しています。
どうでもいい仕事=社会という構造体を維持するための仕事
というのは、それ自体に意味がなくても全体観をもって眺めれば、
少なくとも世の中の「平和」に寄与するものであり、
その「平和」を愛する大多数の人たちに「迷惑をかけない」ものであり、
その「平和」を維持する役割を果たすことに対して一定の対価が与えられるので、
なんとなくそこに落ち着いてしまうという面もあるかもしれません。
では①や②に向かうにはどうすれば良いか?
ということですが、
結局のところ世の中を知り、自分を知り、世の中と自分の接点を見つけて環境(場所や人)を選ぶのが最もスムーズに、そしてダイレクトにそこに向かえるのではないかと思います。
そのプロセスにおいては、
木性の星がなかろうと土性の星がなかろうと人と関わることは大切で、
金性の星がなくてもやってみないと分からないこともあるし、
火性の星がなくても世の中に伝えていくことでしか理解できないこともあり、
水性の星がなくても勉強しないと知ることができないこともあります。
その意味ではどんな命式、どんな偏りがあろうと、最低限の基礎素養というのはやはり大切で、何をするにせよ「スタートはそれから」ともいえるだろうと思います。
最近のコメント