ちょっとセンシティブな内容を書きますのでご注意くださいませ。
さて、算命学の格言に、
「宿命に反する運命現象は本質を変化させる」
というものがあります。
一年ほど前に、川崎の登戸で通り魔事件がありましたが、その加害者の壮年期には天報星があり、胎児の星を持つにもかかわらず、母親の愛情なく育ったことが事件の原因だと断じておられるサイトがありました。
そのように、命式にある本質からかけ離れた人生を歩む人間の本質というのはねじ曲がってしまう、といわれます。
これは、
「宿命を逸れると禍を呼ぶ」ということが積み重なり、極まった先において、
その禍にまみれた人生を呪い、苛立ち、苦しんだ挙句、本人の本質が変化して、ねじ曲がってしまうということなのだろうと思います。
「ねじ曲がってしまう」という言葉のイメージというのは人それぞれと思いますけれど、
ここでいう「ねじ曲がってしまう」というのは冒頭の事件を起こすほどの破壊力を持ちます。
このところ頻繁に、
宿命を逸れて生きていると肥料になる、ということを書いていたのですが、
他人の肥料になるほどのエネルギーがない場合や、
何らかの要素によって肥料になれなかった場合というのは、
そういう「ねじ曲がる」という方向にいってしまうのかもしれないな、と思ったのですがどうでしょうか。
本質を生きないという意味で苦しい「肥料になる」ということについて考えるに、
これはまだ、環境との親和性があるというか、「自分を抑え殺して他人に協力する」という在り方に向かうので、破壊的ではないのです。
けれど、肥料にすらなれなかった場合というのが「心がねじ曲がった先で破壊的な方向に向かってしまう」のだとしたら、まだ肥料になるほうが生産的なのかもしれません。
少し前に、「Aさん、Bさん、Cさん」について書いた投稿へ、
「Bさん(Cさんに利用される人)も役に立つならいいですね」とコメントくださった方がおられたそのときに、
私は、「Bさんは役には立つけど被食者なので苦しいのではないか」ということを書いたのですが、
こうして考えると、「肥料になる」というのは、まだ穏当な生き方なのかもしれません。
この「肥料になる」という言葉で最も思い浮かぶのは、
「火の鳥・宇宙編」で牧村を守るために、植物にメタモルフォーゼしてしまったナナのことですが、そういう生き方にはある種の尊さがあります。
算命学というのは、一極二元の思想が根本にありますが、
宿命に沿って生きて発展する、という次元と、
宿命を逸れて破壊的に生きる、という次元、
その二元の上に、
「肥料になる」という一極があるのだとすれば、
実はこの「肥料になる」という生き方には進化や次元という意味があるのではないか。
そんなふうにも思えてきます。
子供を産み育て次代への発展の芽を育てるというときにおいて、往々にして親はこの肥料になることを選んだりしますね。
本日、サークルのほうに、干合にある一極二元(三角形)とその進化と次元上昇について書く予定なのですが、
その内容とこの、
宿命に沿って生きて発展する生き方
宿命を逸れた破壊的な生き方、
他人の「肥料になる」生き方、
…というのは、
なんとなく一極二元・進化・次元上昇という概念において共通するところがあるように感じました。
算命学において、
成長や発展を創り出すのは常に三角形ですね。
それにしても、
世の中をこうした算命学のフレームで眺めると、無駄なものってないなぁ、ということがよく分かります。
このフレームに出会えたことに感謝です。
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算命学における幸せとは「常に毎瞬、成長に向かうこと」
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