昨日、宿命から逸れている人、
水性の星が無いのに勉強に向かう人の陰転について書きましら、
複数の方からお問い合わせをいただいたので、それについてお答えしたことを書いておきます。
私の感覚ですが、世の中にはざっくり三種類の人がいます。
①宿命どおりにキラキラしながら生きている人
②宿命をなぞりつつふつうに生きている人
③宿命から逸れて迷子になり何らかの形で病んでいる人
③について補足すると、宿命から逸れて生きている場合、心を病んだり身体を病んだりします。
原因不明の体調不良などが長く続いている人は、生き方を見直してみると良いかもしれません。
宿命通りに生きていると、
後天的にめぐる対冲などの散法や天中殺など定期的に苦しいことはありますが、
恒常的に苦しいということはないもので、
散法や天中殺すらさしたる苦悩なく過ごせたりします。
だいたいは自分で「これはちょっと変だな」と分かるように思いますが、大きく逸れているとちょっと自分では分からなくなっている、ということもあります。
他人から見て分かる場合もあります。
例えば論理的な一貫性でいえば知恵の星のある人はそうした一貫性を備えているものですが(時に我田引水な傾向はあるにせよ)、
他人の一貫性にも敏感で、綻びがあるとそれに気づきます。
また、格に入っているような人はある種の完全性を備えているので、他人が宿命から逸れているかどうかも割と敏感に察知します。
完全格の人などは、
他人の不完全さに敏感なので、
結果としてそうした完全性を備えたものに寄りやすく、完全性備えた人や宿命を美しく消化している人に囲まれて生きる傾向があります。
ちなみに、破格の人は『建て直し』の役目があると自然法の市来先生が書いておられましたが、
破格の人は完全性や宿命の不調和を見抜くことはできるけれど、
そうした不完全性や不調和に寛容で、
そうした不完全性を完全なものに建て直すことに向かいやすいように思います。
「自由意志は認められないのか?」
という質問もありました。
これは算命学において宿命を消化することを推奨する上では常に問われる質問なのですが、
これについて考えるには、
果たして「自由意志」とは何か?
という根源的な問いに立ち返る必要があります。
世の中において全き自由意志というのは実は存在せず、
自由意志と一般的に思われているそれは親の価値観や世間の評価、その時代の価値体系の積み重ねであったりします。
そうした「自由意志」を否定するものではありませんが、
命式や星図に現れる道というのは、
より才能を発揮しやすい、
より世間に評価されやすい道であり、
本人にとって自然で満足感が得られやすい道なので、
「その道の方がラクに楽しく世間に貢献できますよ」
ということです。
食の星がなくても世の主婦の人たちが日々の食事を作り続けるように、
知恵の星のない人が本を読むことがいけないわけではありません。
ただ、おそらく知恵の星がなくて本を読み続ける人は、多分その本を読む目的が別のところにあるので、早い段階でそれに気づき、そちらに重心を移したほうが本人にとって良いだろうと思います。
例えば、火性の星が強くあると表現に向かうはずなのに、まわりが金性に囲まれていたりすると葛藤が多くなり、表現したいと思いつつもしきりに本を読み続け、一向に表現に向かえない、ということになる傾向があるように思いますがいかがでしょうか。
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