人生の主人公は自分です。
組織の歯車的に働いていたとしても、
家族を支える主婦であったとしても、
主人公が自分であることに変わりはありません。
昨日、瀧本哲史さんの
『「努力が報われること」は絶対にやってはいけない』
という記事について、
「そもそも「報われたい」と思って努力をする、というのは、奴隷的発想です。」
と書いたことについて質問をいただきました。
なぜ、「報われたい」と思うことがダメなのか?
ダメではないですが、
「報われたい」
と思うそこには、他者(例えば上司とか周りの人とか)から与えられる評価やご褒美を求める意図があります。
これを言い換えれば、
「他人軸」の在り方、
他人依存の生き方、
さらにいえば「他人のための人生」に向かう生き方といえます。
本来目指すべきは「自分軸」の在り方で、
何をするにせよ、
自律的であることによって、
自分の人生を生きることができます。
自分軸で自律的な視点を持つと、
あらゆる人間関係、あらゆる環境は、
自分を光らせるための脇役、舞台装置になります。
主人公として生きる、ということを算命学的にいえば、
日干(=自分)にとって心地の良い環境をいかに整えるか?
日干(=自分)を光らせるために必要な試練をどのように経験するか?
ということになります。
陽占の星図は陰占の命式から出ていますが、
陽占というのは、どのように生きていくか?ということが示された地図のようなものです。
一方で、
その地図がどのような環境の地図で、
どのような役割の人が登場しているのか?
それを示しているのが陰占の命式です。
陰占と陽占は、人生の脚本です。
その脚本に則れば、
たとえ日雇いの清掃員として働いていたとしても、
あるいは組織で不遇の立場に置かれていたとしても、
主人公としての意識を持って生きることができます。
その環境を俯瞰し、
その環境の中で日干(=自分)がどう活きるかという視点で考え行動することができれば、
それは立派な主人公といえます。
日本人は、
戦後以来の教育委員会制度のもとで、
「報われるよう努力しなさい」
という思想のマス教育を受けるので、
よくよく考えないと違和感なく他人軸の考え方を当たり前のように受け入れます。
それについて海外に揶揄されることはあるものの、教育水準全般の高さを考えれば、それ自体が悪いとは言い切れません。
但し、
それはあくまで現実を生きる、肉体を運ぶための思想、
算命学的にいえば、横線の思想です。
人が生きる意味というのが、
生まれてその役割を果たす、志を遂げることにあるとすれば、
そこには精神、縦線が必要で、
それは、まさに戦後の日本人に失われたものではないかと思います。
天命を生きること、
志を遂げること、
縦線の思想を顕現させること、
は、いずれも自分が主人公の発想です。
「努力が報われる」ことではなく、
「努力するそのプロセス」こそに価値を置きスポットライトをあてる生き方です。
自らの宿命を生きるということにフォーカスすると、
あらゆることが、価値あるプロセスになります。
苦悩のとき、不遇のときですら、
栄光の道に向かうためのエピソードになります。
天命を生きる、
宿命を生きる、
ということについて、
あたかも他律的であるかのように捉えられることがあるのですが、
(自分の意思ではない、と捉えて)
それこそが自律的に生きることであり、
主人公としてのその視点を取り戻すためにも、
自らの宿命を知ることは役立つのではないかな、と私は考えています。
※瀧本さんの記事における「生き残る、生き残らない」の6タイプには必ずしも同意しないので記事のリンクは貼りませんでしたが、ググると出てきます。
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