一般的に「気」というと、
気分とか感覚とか念とか、そういう形而上的なものと捉えられているのですが、
淮南子は「気」のことを、
『人間のうちにある物質的生理的な元素・エネルギーとしての「気」』
として、先日、異気融合論について書いたところで、「気」とはエネルギーの最小単位である量子のようなものでは?
と書いたことに符合します。
これは、
『精神』について説かれた箇所にある言葉ですが、
ここではこの「気」のことを、
『永劫の「気」の集散運動によって「生死」の変化を繰り返す肉体』
という記述があり、
「気」が肉体を構成するのだという考えが、古代中国においては当たり前に捉えられていたのだということが分かります。
ちなみに、万物創成の秘密について淮南子にある記述は、古事記にとてもよく似ています。
『混沌の中から陰陽が生まれ、八極が立ち、剛と柔が絡み合って万物が形作られ、
その際、乱雑の気は動物に、純精の気は人間となった。ゆえに、人間の精神は天のものであり、肉体は地のものである。
死んで精神が天の門をくぐり、肉体が地の根に帰った後は、もはや存在できない。』
なんとなく、古事記との共通点が感じられますね。
さて、この淮南子の『精神』の箇所には、
人間は宿命に沿って生きることで繁栄し、
宿命から逸れることで死ぬ、
そのことについても書いてあります。
『聖人は天のあり方をモデルとし、地の姿に従い、俗習に囚われず、世人に惑わされない。また天を父とし地を母とし、陰陽の二気を規範とし、四季の回りを基準として、これに逆らうことがない。
天は静かで清らかなもの、
地は動かず安らかなものである。
万物は、このような天地のあり方に逆らえば死に、従えば生きる。』
つまり、
陰陽五行の仕組みを知り、
それに従っていきましょう、
エゴを張って挑み向かうのではなく、
与えられた役割をその天命に忠実に果たしていきましょう、
というような意味で、
それこそが発展的な人生に向かう秘訣であるといえます。
世の成功者といわれる人たちが、
案外と慎しみ深いのは、
こうした自然の仕組みに謙虚に従っているからかもしれません。
こうした知識は、
良家では家庭の中で自然と教育されているものです。
古来こうした知識は、
中国の賢帝、あるいはそれに近い殿上人などの間でのみ共有され生かされてきたものですが、
今の時代はその気になりさえすれば誰でもそれを学び知ることができます。
しかし不思議なもので、
「良家」ではない人はこうした知識を軽んじて生かそうとはしないそう。
こうしたところで、
算命学的にも
「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」
というマタイ福音書にあるマタイの法則を見ることができるのだなぁと感じました。
先に引用した文章は以下のように続きます。
『そもそも静かで広々とした心は、
神明(道の霊妙な明晰さ)の泊まる宿であり、虚しくぼんやりとした心は、道の落ち着く住まいである。』
これを読むと、「虚しくぼんやりとした心」は、現代における印象とは異なり、大切なものであることがわかります。
算命学では「虚」の概念が様々に出てきますが、その「虚」を理解するのにもつながりそうな記述です。
なお、淮南子では必ずしも精神的な修養ばかりが大切であるとは言っていません。
それは、
『それ故、外面的なもの(世俗)を追い求める者は内面的なものを見失い、内面的なもの(神明)を守る者は外面的なものがお留守になる。
しかし両者の関係は樹木で例えれば根元と枝葉のようなものである。』
という記述に見ることができます。
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