漫画『テレプシコーラ』にみる生月中殺の育て方

テレプシコーラ』の算命学的考察の続きです。
主人公の六花ちゃんは、自分の家のバレエ教室の先生である母親には期待されず、
その才能を本部の先生方に気づいてもらい、伸ばしてもらうことで開かせていきました。

空美ちゃんについて宿命二中殺か全中殺と先日書きましたが、
六花ちゃんは生月中殺の人であろうと思います。

宿命中殺のある子供は、
他家に養子に出るか、他人に育ててもらうことで大成するといわれます。
その親は、自分の子供ではなく、
「社会の子供」
「神様から預かった子供」
「王様の子供」
を、預かった奉仕者のような心持ちで育てるのが良いともいわれます。

これは、家系・家族の枠に収まらない子供なので、その枠の中で育てるのではなく、
より広い世界を前提に育てるという意味でもあります。

親の期待、というのは、
どうしても個人・家庭・家系の枠を作ってしまいます。
実際、六花ちゃんのお母さんの期待は、
親の価値観や親のエゴが垣間見え、
彼女は六花ちゃんをその枠の中で評価し、「期待できない子供」の烙印を押します。

しかし、幸いなことに他人(バレエの本部の先生)が六花ちゃんの可能性を開き、その才能に気づいてくれたことで、それまで親の枠の中で窮屈そうに自信なさげにしていた六花ちゃんは、伸び伸びと健やかな成長に向かうことができました。

ちなみに、六花ちゃんのお母さんは決して鬼親ではなく、常識的・良識的な良い母親です。
しかし、親の期待や教育というのは、
それがたとえ善意のものだったとしても、
宿命中殺を持つ子供には単なる「枠」にしかならないもの。
他人の手に委ね、家庭の外に出すことが望まれるのだろうと思います。

実際、六花ちゃんの大事な局面においてお母さんはいつも何かしらの用事やアクシデントのために不在にしています。
そして母親の不在時において彼女は成功する。

その意味でも、千花ちゃんが文武(勉強とバレエ)においてとても優秀だったために親の期待がすべて千花ちゃんに集まったのは、六花ちゃんにとっては幸運なことでした。
(あらゆる意味で千花ちゃんは六花ちゃんが世に出る、陽としてあるためのお膳立て、陰の役割を担っています)

なお、親が六花ちゃんだけにつきっきりになった唯一の局面は中学受験のときだけでしたがこの受験において彼女は失敗してしまいます。
お父さんが受験場まで車で六花ちゃんを送ってくれようとしましたが、再三にわたるアクシデントが重なってしまいました。

結局六花ちゃんは父親を離れ、一人で受験場に向かい試験を受けるプロセスにおいては二人の「他人」に助けられ、最終的には補欠合格することができるのですが、
このあたりからも、やはり親の枠を離れることで大成する宿命中殺の気配が感じられました。

生月中殺のある人は、やはり可能な限り親の価値観や期待を離れ、
より広い世界に向かうことが望まれるように思います。

※『テレプシコーラ』第3巻
千花ちゃんと六花ちゃんの初めてのコンクールにおいて、お母さんは千花ちゃんには優勝を期待する一方、六花ちゃんにはあまり期待していません。
二人とも予選を突破するのですが、本選にむけて千花ちゃんには最後のもう一工夫を加えようとする一方、六花ちゃんには「今まで通り」で良いとします。
しかし、他人(家のバレエ教室に手伝いに来ている金子先生)のアドバイスで六花ちゃんも一工夫を加えることができました。

また、千花ちゃんにかかりきりのお母さんは、六花ちゃんの本選には手をかけません。
結局、本選ギリギリまで来られないのですが、これも生月中殺の六花ちゃんには実は幸運なことでした。
六花ちゃんはお母さんがいないことで、チャレンジしようという気持ちになることができ、結果としてそれが奏功します。

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Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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