矛盾する星の組み合わせを持つ場合について考えています。
例えば、
天将星は「一芸を極めるべし」と言われます。
先日、
「天将星がその進む道を自覚するのは50代くらいになってから」
と言われて考えたのですが、
確かに、天将星が陽転するためには、その分野においてすべてを理解把握出来てから、と言われるので、
「これが自分の道!」
と気付くのは50代になってからなのかもしれません。
天将星は、
多芸多才になると器用貧乏に陥るのみならず、
何一つモノにできないまま気分だけは王様(いうなれば「裸の王様」)になりかねない星でもあります。
しかし一方で、
ある一つの道を極めるにあたって、
可能な限りの回り道をしながら苦労を重ねることもまた必要です。
「多芸多才」といえば天報星、天将星の対極にある星ですが、
この天報星と天将星を両方持っていたらどうなんだろうか?
と、考えました。
十二大従星は、陰転すると、その対極にある星の悪い面が出てくるといわれるのですが、
天将星と天報星をともに陽転させようとすると、一見矛盾が生じます。
しかし、
天報星の多芸多才、何でも「やろう」と心に決めたことはできる中で一つ軸を定め、その軸を天将星の一つを極めるパワーを持って徹底的に極めるとか(先に天報星がまわる場合)、
天将星のパワフルな追及の道で世界を開いて天報星の様々なことにチャレンジしていく動き方に展開するとか(先に天将星がまわる場合)によって、
うまく稼働させることができるように思います。
また、3つの従星の中でもう1つの星がどんな星かによって、
例えば、現実世界に切り込むことのできる天将星ではあるものの、天報星や天極星などの身弱の星とセットであれば精神世界において極めることによって稼働させるとか、
天胡星のような芸術の星とセットであれば天報星を生かして様々な楽器やジャンルを試しながら一つを極めていくことによって天将星も稼働させていくとかでも良い気がします。
どんな星も、
ただ持っているだけでキラキラと光るものではありません。
どんな星も、陰転と陽転があり、
一極二元の中庸的な視点を失えば基本的に陰転します。
「生きづらい」
と、感じているときであればたいていの場合、陰転しているので、
自分の在り方、星の稼働の在り方を見直してみるのが良いのだろうと思います。
その指標として、星の意味を知るというのは、算命学の活用法の一つともいえる気がします。
但し、こうしたことは他人からは分からないもの。
客観的には生きづらそうに見えても、
本人は充実しているかもしれませんし、
とても成功しているように見えても、
本人は生きづらいと感じているかもしれない、
そうしたことはよくあります。
算命学は非情の学問でもあります。
「これは避けたほうがいい」とか、
「この関係は益を生まない」とか、
ピシャリと合理的に出てくるものですが、
そうしたことは、他人に言われても納得しがたいことの方が多く、
自分で知り、理解を深めて反省し、そして在り方を自ら問うていった先に真実が見えてくる、
そんな学問であると感じています。
先に挙げた天将星と天報星をともに持つ場合の検証は、そうした検証方法の一つです。
ちなみに、矛盾のない星の組み合わせの人というのはまずいません。
ほとんどの人が、何らかの矛盾のある星を持ち、簡単には稼働しない何かがあります。
その意味では、それもまた試練であり、それを超えていくことで美しく生きられるということなのかもしれません。
このところ、人の命式を拝見しながら、その矛盾する星の使い方、稼働の方法についてよく考えます。
考えながら、やはりそれぞれが「自分で読む」ことができるようになるといいのだろうな、という思いを新たにしています。
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