前に書いたかもしれないのですが、
何かをしようとするとき、何かを始めようとするときに、
「叩かれるようなことを敢えてやる」
「反感を持たれるようなことを先にやっておく」
…というのは、もしかしたら対冲などがある人には案外と有効なのかもしれないな、と思います。
これは、「叩かれるようなことを敢えて書く」ような炎上商法のことではありません。まぁ、それも一つの方法ではあるかもしれませんが。
対冲などがあると、必ず何かが壊れたり誰かと衝突したりしどこかで何か邪魔が入ったりします。これは人生の「型」であり、「鋳型のデコボコ」の一つなので、いくら注意深くしてみたところでそのデコボコを埋める(=壊れたり衝突したりする)ことなしに順当に物事が進んでいく、ということはありません。
なので、先に何かしらその対冲らしいことを消化しておかないと、いつ何時、衝撃的なことが起こってモノゴトが頓挫するか分からない、ということになります。それであれば、さっさと対冲っぽいことを自分主導で引き起こし、消化しておいたほうがよかろうというお話です。
高尾宗家もそのご本で、「宿命に合法と散法がある人は散法を先に消化しておくべし」というようなことを書いておられますが、これはそういうことなのだろうと思います。
その意味では、散法(対冲、害、刑、破、納音など)しかない場合でも同じで、散法を何かしら先に消化するべく動くのが良い気がしますがどうでしょうか。
叩かれる、壊れる、衝突する、などと書くとできれば避けたいという思いが先に立ち、なんとなく気持ちが萎縮してしまうものですが、こうした事態は案外と土台をしっかりと造るには有効で、先に困難を経ておくことで、より慎重かつ確実にモノゴトを成していくことにつながり、結局は安定感と継続性をもってそのモノゴトを行なっていくことができるだろうと思います。
これは、宿命に散法がある人は若い頃は何かと苦労するけれど、散法をきちんと消化している場合、40歳くらいを超えてくると慎重さを備えた極めて堅確な人物として表されたりすることからも分かります。
上部だけを眺め平たく学んでいる人からは忌み嫌われがちな相剋が、実は成長に不可欠な要素であるように、散法も実は長い人生というスパンで眺めれば、恩恵としての側面があることに気づきます。
何度か書いていますが、「苦しいときは登り坂」であり、何かを得ているということです。それに気づくか気づかないかの差が、挫折で終わるか成長に向かうかを決めていきます。
避けたいのは、「苦しいとき」にズルいことやひどいこと、人を貶めるようなことをすることです。
人格が未熟な場合、苦しいことがあるとついズルいことをしてラクな道を選んだり、ひどいことをして気を紛らわせたり、人を貶めるようなことをして瞬間の安心を得ようとしたりするものですが、こうしたことは成長を阻害するばかりでなく、成長の芽を摘み、本来の道を逸れていってしまうことにつながります。
説教くさい内容になりましたが、散法のある人は困難を経て人格を備えていくもので、その道は散法がない人より困難があるけれど、その困難を経ることで散法がない人よりも高いところに向かうことができる人でもあります。
そのことを確りと心に留めて、自らを律し、困難を糧として人生に臨むことで道は拓けていくのだろうと思っています。
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